前回、紹介させて頂いた横田郷助氏とはどんな人物なのか?また、彼が長官を任された南洋庁とはどんな国家機関なのか?そんな疑問を払拭するため、ネットで調べてみることにしました。

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9 パラオに置かれた南洋庁

 
 パラオ高校の敷地内に立つ石碑に刻まれた「横田郷助」という日本人の名前。いったいどんな人物なんだろう?

 

 後日早速、ネットで検索してみたところ、驚くべき事実を発見。何と、横田郷助は南洋庁長官を務めた人物でした。




 横田郷助長官 「横田郷助 よこた ごうすけ 明治~昭和時代前期の官僚。明治13(1880)年9月23日生まれ。38年樺太民政署事務官となる。のち群馬県、三重県の内務部長などをへて、大正12年2代南洋庁長官に就任。昭和6(1931)年10月11日任地パラオで死去。52歳。山口県出身。東京帝大卒。」(デジタル版日本人名大辞典+Plusより引用) 




 戦前における日本の海外領土(植民地)は、地域ごとのブロックで台湾・朝鮮・関東地方(中国)・南洋諸島・樺太の5つに大別されていました。そのうち、南洋群島はサイパン島・テニアン島などのマリアナ諸島、ヤルート島などのマーシャル群島、そしてパラオの島々を含むカロリン群島の3つの地域からなり、行政上ではサイパン支庁・トラック支庁・ヤルート支庁・ポナペ支庁・ヤップ支庁・パラオ支庁の6つに区分されていました。

 

 そして、約623万k㎡にも及ぶ広大な領域からなる南洋諸島の行政を管轄する南洋庁の庁舎はパラオ・コロール島におかれました。その建物は「パラオ最高裁判所」と名前を変え、当時の面影を遺した姿で今なお使われています。

 

 その2代目の主こそ横田郷助長官でした。なお、パラオ最高裁判所前の大通りには独立記念日を祝う横断幕が飾られていました。私がパラオに出掛けた丁度4日前(10月1日)が独立記念日で、それを祝う盛大なイベントが催されたようです。


 パラオ最高裁判所 かつての南洋庁の庁舎が利用されています。メインストリートのほぼ南端の三叉路に建っています。
 


 パラオに置かれた南洋庁 写真を「Reconsideration of the History」さんのHPから引用させて頂きました。上の写真と比較して下さい。




 
 独立記念日を祝う横断幕 
最高裁判所の前です。なお、独立当時のパラオ大統領は、日系人のクニオ・ナカムラ氏です。 

  


 ところで、パラオの宗主国は、スペイン→ドイツ→日本→アメリカと次々に変わりました。スペイン領時代はヨーロッパ人による過酷な搾取と彼らが持ち込んだ天然痘などがパラワンを苦しめ、19世紀末においてパラオ人口は約90%程度も激減したと言われています。

 

 また、ドイツはパラオでココナッツやタピオカの栽培、アンガウル島のリン鉱石採掘などの産業を興しましたが、パラワンの暮らしの向上に結び付く、道路や水道などのインフラや学校教育などほとんど整備されなかったそうです。


 それに対し、パラオを含むミクロネシアでは、従来の宗主国のいかなる施設よりも立派な学校や病院などが日本人の手で全域に建てられました。そして、ミクロネシアの子供たちには3年間の義務教育が施され、選抜された優秀な生徒は各支庁の中心地でさらに2年間の教育を受けました。その結果、ミクロネシアの半数以上の人々が、宗主国の言語で初めて実用的な読み書きができるようになりました。


 また、病院では、ミクロネシアの全ての住民に対し、数種類の予防接種を受けさせました。豊富な水産資源を背景に漁業が栄えたほか、温暖な気候を生かしたサトウキビ栽培、それを原料とする製糖業が各地で目覚ましい発展を遂げました。他にも、多くの島々に厚く堆積するリン鉱石の採掘は、日本人の手で国際ビジネスに発展。肥料の原料として盛んに輸出されました。

 ところで、わが国の歴史教科書は、第一次世界大戦後、南洋諸島が国際連盟の委託によって日本の委任統治領となった事実を記述しています。しかしながら、その統治の内実まで踏み込んたものは見当たりません。おそらく、後に独立した近隣諸国への配慮もあるかもしれませんが、私たちの先人たちがそれらの土地に刻んだ歴史を全く記述しないのは行き過ぎではないでしょうか?

 

 欧米列強に搾取され続けたアジア・太平洋諸国を開放し、年代のズレは生じたものの、独立を強力に後押ししたのは紛れもなく日本です。植民地経営においても、それまでの白人の手法とは違い、教育や医療の充実、公衆衛生の改善、産業育成に至るまで、先住民の暮らしを支えるきめの細かい行政など、目を見張るものがありました。そうした先人たちの偉業を黙殺し続ける歴史教科書をいつまでも放置し続けることが、果たして日本と日本人にとってプラスなのでしょうか?

 

 過度に自国の歴史を貶め、先人たちが築いた偉大な業績にいちいちケチを付けたがる、不毛な歴史認識を指して「自虐史観」と言います。私がライフワークの一つに掲げているのは、まさに日本国内における自虐史観の払拭です。これまでにも私は、公教育の現場で左傾化した歴史教育の根絶を訴え、修学旅行における過度な反戦平和イデオロギー学習を排除するなど、自分に出来ることを少しずつ手を付けて参りました。

 

 今回、パラオに出掛けた理由の一つも、日本が過去に行った植民地経営の真実に触れることで、まずは自分自身の歴史観を不動のものにすることでした。

 もちろん、日本の植民地経営の全てを美化するのは危険です。それでも、欧米列強や中国の支配下ではほとんど発展が見込めなかった地域が、日本の植民地行政が始まるや否や近代化を加速させた点は、近現代史を理解する上でもっと強調されるべきです。アジア・太平洋地域の同胞として、私たちの先人たちは植民地の人々の生活水準の向上、公衆衛生の改善に多大な貢献をしたのです(つづく)。

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 最後までお読み頂き、ありがとうございました。

 次回は「10 グルメ?編」をお送りします。乞うご期待!