【太宰 治】
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【太宰 治】
太宰 治
誕生 津島 修治(つしましゅうじ)
1909年6月19日
青森県北津軽郡金木村
現・青森県五所川原市
死没 1948年6月13日
東京都北多摩郡三鷹町
現・東京都三鷹市
職業 小説家、作家
ジャンル 小説
表・話・編・歴
文学
ポータル
各国の文学
記事総覧
出版社・文芸雑誌
文学賞
作家
詩人・小説家
その他作家
太宰 治(だざい おさむ、明治42年(1909年)6月19日 - 昭和23年(1948年)6月13日)は、昭和を代表する日本の小説家。本名は津島修治(つしましゅうじ)。
1933年より小説の発表を始め、1935年に「逆行」が第1回芥川賞候補となる。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格』など。諧謔的、破滅的な作風で、坂口安吾、石川淳などともに新戯作派、無頼派とも称された。大学時代より自殺未遂、心中未遂を繰り返し、1948年玉川上水にて山崎富栄とともに入水自殺した。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 幼年時代
1.2 学生時代
1.3 小説家時代
2 作家研究
3 略年譜
4 作品一覧
5 家庭・親族
6 系譜
7 関連人物
8 脚注
9 参考文献
9.1 太宰の伝記
9.2 その他
10 関連項目
11 外部リンク
[編集] 経歴
[編集] 幼年時代
1909年(明治42年)6月19日、青森県北津軽郡金木村(現在の青森県五所川原市、旧北津軽郡金木町)に、県下有数の大地主である津島源右衛門(1871-1923)、タ子(たね)(1873-1942)の6男・津島修治として生まれた。二人の間には11人の子供がおり、10番目であった(但し、太宰が生まれた時点ですでに長兄・次兄は他界)。父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員等をつとめた地元の名士であった。
津島家の先祖について、昭和21年に発表した「苦悩の年鑑」のなかで「私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。私は、無智の、食ふや食はずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助の時代からであつた」と書いている。惣助は、油売りの行商をしながら金貸しで身代を築いていったという。また、津島家は、旧対馬国から日本海を渡って津軽に定住した一族であるとする説もある。
[編集] 学生時代
1916年、金木第一尋常小学校に入学。1923年、青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)入学直前の3月、父が死去した。
17歳頃、習作「最後の太閤」を書き、また同人誌を発行。作家を志望するようになる。官立弘前高等学校文科甲類時代には泉鏡花や芥川龍之介の作品に傾倒すると共に、左翼運動に傾倒。
1929年、当時流行のプロレタリア文学の影響で同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二の名で作品を発表。 この頃は他に小菅銀吉、または本名でも文章を書いていた。12月、みずからの階級に悩みカルモチン自殺を図る。
1930年、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学。だが、高水準の講義内容が全く理解できなかったうえ、非合法の左翼運動にのめり込み、授業にはほとんど顔を出さなかった。また、小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。この頃から太宰は、本名の津島修治に変わって太宰治を名乗るようになる。大学は留年を繰り返した挙句に授業料未納で除籍処分を受ける。卒業に際して口頭試問を受けたとき、教官の一人から、教員の名前が言えたら卒業させてやる、と冗談を言われたが、講義に出なかった太宰は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。在学中に、カフェの女給で人妻である田部シメ子(1912-1930)と出会い、鎌倉の海に投身する。だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る。
[編集] 小説家時代
1933年、短編「列車」を『サンデー東奥』に発表。同人誌『海豹』に参加し、「魚服記」を発表。1935年、「逆行」を『文藝』に発表。初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、第1回芥川賞候補となったが落選(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。その後、都新聞社に入社できず、またも自殺未遂。また、この年、佐藤春夫を知り師事する。1936年、前年のパビナール中毒が進行し治療に専念するも、処女短編集『晩年』を刊行。翌年小山初代(1912-1944)とカルモチン自殺未遂。一年間筆を絶ったが、「姨捨」で復活。
1938年(昭和13年)、井伏鱒二の招きで山梨県御坂峠にある天下茶屋を訪れ、井伏の仲人で甲府市出身の石原美知子(1912-1997)と結婚。甲府市御崎町(現・朝日)に住み、精神的にも安定した。「富嶽百景」など山梨県を舞台とする作品を書いた。1947年、没落華族を描いた長編小説、『斜陽』を刊行。
生活のために、黒木舜平という筆名で心理サスペンス小説「断崖の錯覚」を書いたこともあるが、太宰自身はこの作品を恥じていた。
39年の生涯で4回の自殺未遂を繰り返し、1948年(昭和23年)に玉川上水(東京都北多摩郡三鷹町)における愛人・山崎富栄(1917-1948)[1]との入水心中により生命を絶つ(同6月13日)。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、愛人による無理心中説、狂言心中失敗説等が唱えられている。2人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日の事であった。 この日は桜桃忌(おうとうき)として知られ、太宰の墓のある三鷹の禅林寺には多くの愛好家が訪れる。
太宰治記念館 「斜陽館」太宰治の出身地・青森県金木町でも桜桃忌の行事をおこなっていたが、生地金木には生誕を祝う祭りの方が相応しいとして、遺族の要望もあり、生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。
金木の生家は、太宰治記念館 「斜陽館」として公開され、国の重要文化財に指定されている。
[編集] 作家研究
4回の自殺未遂や小説のデカダン的とも言える作風のためか、真に迫った作風を好む作家としてのみ捉える向きもあるが、戦時中は「畜犬談」『お伽草紙』『新釈諸国噺』などユーモアの溢れる作品も残している。深刻な作品のみを挙げて太宰文学を否定した三島由紀夫は、ある作家から「それなら君は『お伽草紙』を否定できるか!」と詰め寄られて、一言も言い返せなかった[要出典]。個人的に太宰と交際があった杉森久英も、永らく太宰文学を好きになれなかったが、戦後だいぶ経ってから『お伽草紙』や『新釈諸国噺』を読んで感嘆し、それまで太宰を一面的にしか捉えていなかった自分の不明を深く恥じたという[1]。
長編、短編ともに優れていたが、「満願」等のように僅か原稿用紙数枚で、見事に書き上げる小説家としても高く評価されている。「女生徒」「きりぎりす」をはじめとして、女性一人称の作品を多く執筆。「なぜ男性なのに、女性の気持ちがここまで判るのか」と、女性作家や女性文芸評論家から賞讃を受けている(ただしこれは、特定の女性の日記が基になっている作品だからであるとの指摘がある[要出典])。
また坂口安吾、織田作之助、石川淳と共に「無頼派」または「新戯作派」の一人に数えられる太宰は、退廃的な作風を好んだ、と一般に言われている。 しかしながら、太宰自身は退廃的な作品を書きながらも同世代の作家のなかでもっとも「神を求めた人」であった、とする研究・評論も多くある[要出典]。
小説の持つ退廃的な印象とは逆に、太宰は聖書やキリスト教にも強い関心を抱き続けた。そして聖書に関する作品をいくつか残している。その一つが「駈込み訴へ」である。「駈込み訴へ」では、一般的に裏切り者、背反者として認知されるイスカリオテのユダの心の葛藤が描かれている。太宰は、この作品を口述筆記で一気に仕上げた。
太宰自身によると「最悪」の積み重ねが小説になるのだと言う
1948年、太宰の死の直前から『太宰治全集』が八雲書店から刊行開始されるが、同社の倒産によって中絶した。その後、創藝社から新しく『太宰治全集』が刊行される。だが、書簡や習作なども完備した本格的な全集は1955年に筑摩書房から刊行されたものが初めてである。
[編集] 略年譜
1909年(明治42年) 青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山(現・五所川原市)に生まれる。
1916年(大正5年) 町立金木尋常小学校に入学。
1923年(大正12年) 県立青森中学校(新制県立青森高校の前身)入学。英語作文の成績に優れていた。
1925年(大正14年) 中学の校友会誌に習作「最後の太閤」掲載。友人と同人誌『星座』発行。
1927年(昭和2年) 第一高等学校(新制東京大学教養学部の前身の一つ)受験に失敗し、弘前高等学校(新制弘前大学の前身の一つ)の文科甲類(文系の英語クラス)に入学。同学年に作家石上玄一郎がいる。
1928年(昭和3年) 同人誌『細胞文芸』を創刊。潤沢な資金を背景に、舟橋聖一や吉屋信子など多数の有名作家から原稿を貰った。このころ井伏鱒二の作品を知り、『細胞文芸』への執筆を依頼。井伏の「薬局室挿話」はこの時の作品である。
1930年(昭和5年) 東京帝国大学文学部仏文学科入学。門人として井伏鱒二のもとに出入りするようになる。同年カフェの女給田部シメ子と鎌倉の小動岬で心中未遂を起こす。相手のシメ子のみ死亡したため、自殺幇助の容疑で検事から取調べを受けたが、長兄文治たちの奔走が実って起訴猶予となった。なお、この処分については、担当の宇野検事がたまたま太宰の父の実家である松木家の親類だったことや、担当の刑事がたまたま金木出身だったことが太宰にとって有利に作用したという説もある(中畑慶吉の談話)。
1931年(昭和6年) 津島家から除籍され、小山初代と結婚。
1933年(昭和8年) 『東奥日報』紙に短編「列車」を太宰治の筆名で発表。ペンネームを使った理由を、「従来の津島では、本人が伝ふときには『チシマ』ときこえるが、太宰といふ発音は津軽弁でも『ダザイ』である。よく考へたものだと私は感心した。」と、井伏鱒二氏の回想「太宰君」にて記されている。
1934年(昭和9年)檀一雄、山岸外史、木山捷平、中原中也、津村信夫等と文芸誌『青い花』を創刊するも、創刊号のみで廃刊。
1935年(昭和10年)「逆行」が芥川賞候補となり次席。佐藤春夫に師事する。
1937年(昭和12年) 小山初代が津島家の親類の画学生小館善四郎と密通していたことを知り、初代と心中未遂、離別。
1938年(昭和13年) 石原美知子と婚約。山梨県に転居。
1941年(昭和16年) 長女・園子誕生。
1944年(昭和19年) 長男・正樹誕生。
1945年(昭和20年) 青森県に疎開。
1947年(昭和22年) 次女・里子(津島佑子)誕生。太田静子(1913-1982)の許を訪れた後、「斜陽」を書き上げる。太田との間に女児(太田治子)誕生。
1948年(昭和23年) 『人間失格』を発表。山崎富栄と玉川上水(東京都北多摩郡三鷹町、現・三鷹市)の急流にて入水心中、38歳没(満年齢)。ふたりの遺体は紐で固く結ばれていたが、太宰が激しく抵抗した形跡が歴然と残っていた。このため一部では「太宰は決行直前になって気が変わったが、山崎が強引に水の中へ引きずり込んだのだ」との説や、最初から死ぬ気のなかった太宰を、富栄が強引に引きずり込んだともささやかれた。『朝日新聞』に連載中だったユーモア小説「グッド・バイ」が遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクスを暗示した、太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。遺書には「小説が書けなくなった」旨が記されていたが、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の原因のひとつだったとする説もある。既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論「如是我聞」の最終回は、死後に掲載された。なお、夫人宛の遺書には大きな文字で「おまえを誰よりも愛していました」と書いてあった[要出典]。杉並区堀ノ内にて荼毘に付される。戒名は文綵院大猷治通居士。墓所は三鷹市の禅林寺。
[編集] 作品一覧
晩年(1936年、砂子屋書房)
虚構の彷徨、ダス・ゲマイネ(1937年、新潮社)
二十世紀旗手(1937年、版画荘)
愛と美について(1939年、竹村書房)
女生徒(1939年、砂子屋書房)
皮膚と心(1940年、竹村書房)
思ひ出(1940年、人文書院)
走れメロス(1940年)
女の決闘(河出書房)
東京八景(1941年、実業之日本社)
新ハムレット(1941年、文藝春秋新社)
千代女(1941年、筑摩書房)
駆込み訴へ(1941年、月曜荘)
風の便り(1942年、利根書房)
老ハイデルベルヒ(1942年、竹村書房)
正義と微笑(1942年、錦城出版社)
女性(1942年、博文館)
富嶽百景(1943年、新潮社)
右大臣実朝(1943年、錦城出版社)
佳日(1944年、肇書房)
津軽(1944年、小山書房)
新釈諸国噺(1945年、生活社)
惜別(1945年、朝日新聞社)
お伽草紙(1945年、筑摩書房)
パンドラの匣(1946年、河北新報社)
薄明(1946年、新紀元社)
冬の花火(1947年、中央公論社)
ヴィヨンの妻(1947年、筑摩書房)
斜陽(1947年、新潮社)
人間失格(1948年、筑摩書房)
桜桃(1948年、実業之日本社)
[編集] 家庭・親族
小説家の津島佑子は次女。衆議院議員津島雄二(旧姓上野)は、太宰の長女津島園子の夫で、自民党の派閥津島派(旧橋本派、旧竹下派)の会長。小説家の太田治子は愛人太田静子との間にできた子である。三兄の津島文治は金木町長、青森県知事、衆議院議員、参議院議員を歴任。文治の長男津島康一は俳優。四兄の津島英治もまた金木町長。英治の孫の津島恭一は元衆議院議員。
[編集] 系譜
津島氏 - 津島家の家系については様々な説があり明確ではない。初代惣助は豆腐を売り歩く行商人だったという。津島家を県下有数の大地主に押し上げた三代目惣助は嘉瀬村の山中家出身でもとの名を勇之助といった。1835年、大百姓山中久五郎の次男として生まれ1859年津島家の婿養子となった。山中家の先祖は、「能登国山中庄山中城主の一族」だったと伝えられている。1867年二代目惣助が他界し家督を相続して三代目「惣助」を襲名した。油売りの行商と金貸しで財を蓄え新興の大地主となった。1894年北津軽郡会議員の大地主互選議員に当選、1895年北津軽郡所得税調査委員選挙に当選、1897年再び郡会の大地主議員となり県内多額納税者番付の12位に入って貴族院議員の互選資格を手に入れた。無名の金貸し惣助からちょっとした地方名士として名を成したのであった。
後妻
┣━惣五郎
┃
┃ ┏惣四郎━いし
惣助━惣助 ┣清助
┣━╋貞助
┃ ┣次女
先妻 ┃
┗きさ (松木氏)
(山中氏)┃ 源右衛門 ┏たま
惣助 (惣五郎) ┣━━━╋総一郎
┣………╋━━┳たね ┣とし
さよ (いし) ┣きゑ ┣勤三郎
┗竹次郎 ┣文治━━康一
┣英治━━一雄━━恭一
┣圭治
┣あい 雄二(旧姓上野)
┣きよう ┃
┣修治(太宰)━┳園子
┗礼治 ┣里子(佑子)
┣正樹
└太田治子
松木氏 先祖は若狭国小浜(現・福井県)の商人で1658-60年頃に弘前にやってきて羽二重の商をした。1661-72年頃新田開発の功を認められ大庄屋となった。明治に入って八代目七右衛門の時代に薬種問屋に転業するまで代々造り酒屋を営んでいた。
七右衛門 ┏幹三郎
┣━━━╋省三郎
ひさ ┣忠三郎
┣永三郎(後の津島源右衛門)
┣もと
┣友三郎(源右衛門の妻たねの妹きゑと結婚)
┣禄郎
┣いま
┗たま
[編集] 関連人物
浅見淵(あさみ・ふかし) - 太宰の先輩作家。砂子屋書房より処女創作集『晩年』を刊行するにあたっては、浅見と檀一雄の尽力が大きかった。
阿部合成(あべ・ごうせい) - 太宰の中学の同級生で親友。画家。
池田正憲 - 太宰の弟子。作家。
石川淳 (いしかわ・じゅん)-戦後、太宰・坂口安吾・織田作之助と共にいわゆる無頼派の騎手とされた文学者。太宰とは昭和14年頃以来4度ほど酒席を共にした。太宰の死に際し「太宰治昇天」と題した文章を発表(『新潮』第45巻第7号、1948年7月)。
石沢深美 - 太宰の弟子。NHK勤務。兄嫁の弟は堤重久。
石上玄一郎(いしがみ・げんいちろう) - 本名上田重彦。旧制弘前高校時代の太宰の友人で、左翼運動の同志。石上は運動にのめりこんで放校になり、塗炭の苦しみを嘗めたが、太宰は実家の威勢などを背景に放校を免れた。のち東京に出て貧乏に苦しんでいたとき太宰に借金を踏み倒され、そのことを自伝の中で怨念をこめて語っている。
出英利(いで・ひでとし) - 太宰の年少の友人。哲学者出隆の息子。人柄を太宰に愛されていた。のち自殺。
井伏鱒二 - 太宰の師。太宰自身の言によれば、太宰がまだ青森の中学生だったころ、井伏の『山椒魚』を読んでその天才に興奮した。大学上京後から師事し、結婚の仲人も井伏に務めてもらった。戦後になって、太宰は井伏に複雑な感情を抱いていたようであり、遺書に「井伏さんは悪人です」と書き残していたことは話題になった。両者の確執にはさまざまな説があるが、本当のところは分かっていない。
伊馬春部 - 別名伊馬鵜平。太宰の親友で、ユーモア作家として「畜犬談」を捧げられた。折口信夫に太宰作品を勧めたのも伊馬である。太宰嫌いで有名な三島由紀夫は目黒時代伊馬家の隣家に住んでおり、強盗に押し入られて逃げ出したとき伊馬家に保護を求めたことがある。
大高正博 - 太宰の弟子。
小野才八郎 - 太宰の弟子。
桂英澄 - 太宰の弟子。
亀井勝一郎 - 太宰の友人。
川端康成 - 太宰が芥川賞候補になって落選したときの選考委員の一人。川端が「作者(太宰)目下の生活に厭(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる憾(うら)みあった」と批評したため、太宰は「川端康成へ」と題する短文を書いて抗議。川端は「太宰治氏へ芥川賞について」という釈明の短文を発表し、己の不遜を詫びた。
菊田義孝 - 太宰の弟子。
小館善四郎 - 太宰の親類。画学生時代に小山初代と過ちを犯す。のち洋画家となる。
小山清 - 太宰の弟子。
小山祐士
今官一 - 太宰の同郷の友人。津軽出身の文士の中では唯一の理解者として、太宰から信頼されていた。短篇「善蔵を思う」には「甲野嘉一君」として登場する。
坂口安吾 - 太宰の友人。太宰の死をめぐって「不良少年とキリスト」を書く。
佐藤春夫 - 太宰の師。太宰作品が芥川賞候補になったとき、薬物中毒時代の太宰から、賞を「何卒私に与えて下さい」と懇願する手紙を何通も送られた。けっきょく太宰が落選すると、太宰は短篇「創世記」を書いて佐藤を批判。これに対して佐藤は小説「芥川賞」を書き、太宰の非常識な行動を暴露し報復した。これ以降、太宰は佐藤と疎遠になったが、太宰の才能を認めていた佐藤はそのことを多少遺憾に思っていたという。
志賀直哉 - 長篇小説『津軽』で太宰から批判(名指しではないが)を受けたのを根に持ち、雑誌の座談会で中村眞一郎や佐々木基一を相手にして太宰を酷評。旧制学習院出身で貴族社会をよく知る志賀から、『斜陽』に登場する貴族の娘の言葉遣いが山出しの女中のようで閉口した、もう少し真面目にやったらよかろう云々とこき下ろされたことに逆上した太宰は、最晩年の連載評論「如是我聞」で志賀に反撃した。当時、文士が志賀直哉に逆らうということは事実上の文壇追放を意味していたと言われる。太宰の死後、1948年8月15日、志賀は「太宰治の死」と題する一文を草し、「私は太宰君が私に反感を持つてゐる事を知つてゐたから、自然、多少は悪意を持つた言葉になつた」と『津軽』の件で太宰に腹を立てていたことを認め、「太宰君が心身共に、それ程衰へてゐる人だといふ事を知つてゐれば、もう少し云ひようがあつたと、今は残念に思つてゐる」と、自分の対応が大人げなかったことを詫びている。
杉森久英 - 編集者時代に太宰と交際。杉森は太宰の3歳下だったが、遥か年下と勘違いした太宰が画集を出してミケランジェロの偉大さを教えようとしたため、太宰に教えられなくても知っているよと反感を持ったという。戦後には、たまたま「如是我聞」事件の発端となった座談会をセッティングしたため、太宰と志賀の反目をハラハラしながら見守っていた。
田中英光 - 小説家。太宰の弟子。元オリンピック選手。薬物中毒の果てに傷害事件を起こし、太宰の死の翌年、太宰の墓前で自殺。
檀一雄 - 小説家。太宰の親友。走れメロスは壇とのエピソードがモデルになっている。
土屋嘉男 - 俳優。井伏鱒二の紹介により知り合う。太宰から芝居の道へ進むよう進言され、俳優となった。
堤重久 - 太宰が最も信頼していた弟子。のち京都産業大学名誉教授。『太宰治との七年間』の著書あり。
堤康久 - 堤重久の弟で、少年時代の日記から『正義と微笑』の題材を提供した。のち俳優となり、『ウルトラQ』『ウルトラマン』などに出演した。
津村信夫 - 太宰の友人。同時代の詩人の中では、津村の詩を太宰は誰よりも高く評価していた。
寺内寿太郎 - 彼の遺書の1節が短篇「二十世紀旗手」の冒頭のエピグラフに引用される。
戸石泰一 - 太宰の弟子。
豊島与志雄 - 太宰の先輩作家。太宰の死後、葬儀委員長を務めた。
中井英夫 - 東大在学中、第14次『新思潮』の編集に関連して太宰と交際。あるとき、訪問先の太宰を「先生はよくもうすぐ死ぬ、と仰いますが、いつ本当に死ぬんですか」と問い詰めたことがある。太宰は「人間、そう簡単に死ねるもんじゃない」と答えたが、その一ヵ月後に自殺した。
中野嘉一 - 太宰の主治医。太宰をサイコパスと診断した。
中谷孝雄 - 太宰の友人で日本浪曼派の中心人物。
中野好夫 - 東大英文科教授。短篇「父」を「まことに面白く読めたが、翌る朝になったら何も残らぬ」と酷評し、太宰から連載評論「如是我聞」のなかで「貪婪、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人」と反撃された。太宰の死後、『文藝』1948年8月号の文芸時評「志賀直哉と太宰治」のなかで「場所もあろうに、夫人の家の鼻の先から他の女と抱き合って浮び上るなどもはや醜態の極である」「太宰の生き方の如きはおよそよき社会を自から破壊する底の反社会エゴイズムにほかならない」と太宰の人生を指弾した。
中原中也 - 『青い花』の同人仲間。太宰に「お前は何の花が好きなんだい」と訊いたとき、太宰が泣き出しそうな顔で「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると、「だからお前は駄目なんだ」とこき下ろした。太宰の側でも中也の人間性を嫌っており、親友山岸外史に対して「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃない」とこき下ろした。
中村地平 - 井伏門下で、太宰の兄弟弟子。
中村貞次郎
野原一夫 - 新潮社の担当編集者。『回想太宰治』を書く。
野平健一 - 新潮社の担当編集者。
林忠彦 - 写真家。太宰が行きつけだった銀座のバーで織田作之助を撮影していたところ、泥酔の太宰が「おい、俺も撮れよ。織田作ばっかり撮ってないで、俺も撮れよ!」と言って撮影させた。この写真は林の代表作の一つとなっており、現在も飾ってある。
平岡敏男 - 弘前高校時代の友人。のち毎日新聞社社長となる。
深田久弥 - 太宰の先輩作家。妻の北畠八穂が太宰と同郷だった縁がある。太宰は都新聞の入社試験に落ちて鎌倉で縊死を企てた時、深田の作風を慕って深田家を訪ねている。ただし当時の深田の代表作はほとんどが北畠の作品の焼き直しだったことが戦後に露見した。
鰭崎潤 - 太宰の友人で画家。太宰は鰭崎のアトリエを訪れて、自画像や静物画を描いたことがある。
別所直樹 - 太宰の弟子。
三島由紀夫 - 大学時代、周囲の太宰熱に誘われて『斜陽』を読んだが、この作品に登場する架空の貴族の言動があまりに現実の日本の貴族とかけ離れていることに旧制学習院出身者として大きな違和感を持った。「虚構の彷徨」「ダス・ゲマイネ」なども読んだが、やはり悪印象を持った。その後、矢代静一に連れられて太宰を囲む会に出席したとき「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と放言した。三島によると、これに対して太宰は虚をつかれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えたというが、その場に居合わせた野原一夫によると「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけたという。三島は、その後も約20年間にわたって繰り返し太宰に生理的嫌悪を表明し続けた。「太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた。第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ」。田中英光の死についても「弱者(太宰)が強者(田中)をいじめ殺した」と揶揄的に述べていた。
棟方志功 - 太宰の同郷人。美術に対して鋭い感覚を持っていた太宰は、早くも旧制中学のころ、無名時代の棟方の作品を高く評価してこれを購入し、下宿先の主人に寄贈したことがある(「青森」)。太宰が作家になってからは、同郷人の寄り合いで同席した太宰の挨拶が小さいので「もう、いっぺん!」と要求し、太宰から怒鳴られたことがある(「善蔵を思う」)。
森鴎外 - 太宰は、「たち依(よ)らば大樹の陰、たとえば鴎外、森林太郎」という文を書いた。また本人の墓石は、希望したとおり、三鷹市禅林寺にある森鴎外の墓石と向き合う所(正確には斜め向かい)に立てられている。ちなみに、刻まれた「太宰治」の文字は、井伏鱒二の筆による。
保田與重郎 - 太宰の友人。
山岸外史 - 東京出身の評論家で、太宰の親友。1934年(昭和9年)に太宰と知り合い、『青い花』や日本浪漫派の同人として交友を深めた。自身も『人間キリスト記』などの著作により太宰の文学に影響を与えたが、戦後絶交状を送るなどして次第に疎遠となった。しかし太宰入水に際して遺体捜索には加わり、美知子夫人から「ヤマギシさんが東京にいたら、太宰は死ななかったものを」と涙を流されたことなど、その複雑な交友の実態を回想録『人間太宰治』(1962年(昭和37年))、『太宰治おぼえがき』(1963年(昭和38年))のなかで明らかにしている。
[編集] 脚注
^ 杉森久英『苦悩の旗手 太宰治』
[編集] 参考文献
[編集] 太宰の伝記
長部日出雄・著 『桜桃とキリスト もう一つの太宰治伝』
猪瀬直樹著 『ピカレスク ~太宰治伝』 小学館 2000年 ISBN 4-09-394166-1 (監督:伊藤秀裕 太宰:河村隆一で映画化)
杉森久英著 『苦悩の旗手 太宰治』 文藝春秋 1967年
杉森久英著 『苦悩の旗手 太宰治』(角川文庫) 角川書店 1972年
杉森久英著 『苦悩の旗手 太宰治』(河出文庫) 河出書房新社 1983年 ISBN 4-309-40053-1
檀一雄著 『小説太宰治』 審美社 1992年 ISBN 4-7883-3065-2
檀一雄著 『小説太宰治』(岩波現代文庫 文芸 12) 岩波書店 2000年 ISBN 4-00-602012-0
野原一夫著 『回想太宰治』 新潮社 1980年 ISBN 4-10-335301-5
野原一夫著 『回想太宰治』(新潮文庫 草 303-1A) 新潮社 1983年 ISBN 4-10-130301-0
野原一夫著 『回想太宰治 新装版』 新潮社 1998年 ISBN 4-10-335308-2
山岸外史著 『人間太宰治』 (ちくま文庫) 筑摩書房 1989年 ISBN 4-480-02337-2
朗読CD 太宰治作品集~CD15枚組~ (日本音声保存)2006年 ISBN 4-901708-93-7
[編集] その他
奥野健男著 『太宰治論』 近代生活社 1987年
鎌田慧著 『津軽・斜陽の家 ~太宰治を生んだ「地主貴族」の光芒』 祥伝社 2000年 ISBN 4-396-63172-3
鎌田慧著 『津軽・斜陽の家 ~太宰治を生んだ「地主貴族」の光芒』(講談社文庫) 講談社 2003年 ISBN 4-06-273767-1
吉田和明著 『太宰治』(フォー・ビギナーズ・シリーズ 45) 現代書館 1987年 ISBN 4-7684-0045-0
小野才八郎著 『太宰治語録』 津軽書房 1998年 ISBN 4-8066-0169-1
[編集] 関連項目
文学/日本文学/日本の近現代文学史
私小説
青森県出身の人物一覧
火の山―山猿記/純情きらり
デカダンス
マイナス思考
ピカレスク 人間失格
[編集] 外部リンク
ウィキクォートに太宰治に関する引用句集があります。太宰 治:作家別作品リスト(青空文庫)
旧金木町(現五所川原市)・「斜陽館と太宰治」
五所川原市・斜陽館
太宰治『思ひ出』の雲祥寺
関連家系図
太宰治のお墓
日本音声保存
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%B2%BB
" より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 太宰治 | 日本の小説家 | 青森県出身の人物 | 1909年生 | 1948年没 | 五所川原市 | レーゼドラマを書いた作家 | 自殺した人物
2008年9月21日 (日) 08:02。
調べもの新聞 【夏目漱石】
高大連携情報誌調べもの新聞
『大学受験ニュース』(ブログ版)
【夏目漱石】
1912年9月13日(明治天皇の大喪の礼の日)[1]
誕生 1867年2月9日
江戸牛込馬場下横町
死没 1916年12月9日
東京
職業 小説家、評論家、英文学者
ジャンル 小説、俳句、漢詩、評論
文学活動 余裕派、反自然主義文学
影響を与えたもの[表示]
多くの日本の作家
表・話・編・歴
文学
ポータル
各国の文学
記事総覧
出版社・文芸雑誌
文学賞
作家
詩人・小説家
その他作家
夏目 漱石(なつめ そうせき、慶応3年1月5日(1867年2月9日) - 大正5年(1916年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助。『吾輩は猫である』『こゝろ』などの作品で広く知られる、森鴎外と並ぶ明治・大正時代の文豪である。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後に東京帝国大学)英文科卒業後、松山中学などの教師を務めた後、イギリスへ留学。帰国後東大講師を勤めながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊つちやん」「倫敦塔」などを書く。その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。
「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私」(そくてんきょし)の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。
昭和59年(1984年)から平成16年(2004年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 幼少期
1.2 子規との出会い
1.3 イギリス留学
1.4 朝日新聞社入社と文豪への道
1.5 修善寺の大患
2 年譜
3 作品一覧
3.1 全集
3.2 小説
3.2.1 中・長編小説
3.2.2 短編小説・小品
3.3 評論・エッセー・講演など
4 家族 親族
5 門下生
6 その他
6.1 漱石と病気
6.2 精神医学上の研究対象
6.3 神格化
6.4 言葉遊び
6.5 造語
6.6 漢詩
6.7 海外での評価
7 脚注
8 参考文献
9 映像化作品
10 関連項目
11 外部リンク
11.1 オンライン・テクスト
11.2 施設など
11.3 写真・肖像
11.4 その他
[編集] 経歴
[編集] 幼少期
慶応3年1月5日(1867年2月9日)、江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子として出生。母は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、漱石は望まれない子として生まれたといえる。金之助という名前は、生まれた日が庚申の日(この日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。また3歳頃に罹った疱瘡により傷痕は目立つほどに残ることとなった。
当時は江戸幕府崩壊後の混乱期であり生家は名主として没落しつつあったのか、生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い実家へ連れ戻した。その後、1歳の時に父親の友人である塩原昌之助の養子に出された。しかし、養父昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり、7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいた。養父母の離婚により、9歳の時、生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少時は波乱に満ちていた。この養父昌之助には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。
家庭のごたごたのなか市ヶ谷学校を経て錦華小学校と小学校を転校していた漱石だったが、錦華小学校への転校理由は東京府第一中学への入学が目的であった。12歳の時、東京府第一中学正則科(のちの府立一中、現在の日比谷高校)に入学。しかし、大学予備門受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため2年ほどで中退した。中退ののちも長兄・大助に咎められるのを嫌い弁当をもって一中に通う振りをしていた。のち漢学私塾二松学舎に入学する。ここで後の小説で見られる儒教的な倫理観、東洋的美意識や江戸的感性が磨かれていく。しかし、ここも数ヶ月で中退。長兄・大助が文学を志すことに反対したためでもある。長兄は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来の良かった末弟の金之助を見込み、大学を出て立身出世をさせることで夏目家再興の願いを果たそうとしていた。
2年後の明治16年(1883年)、大学予備門(のちの一高)を受験するには英語が必須であったため神田駿河台の英学塾成立学舎(現在の成立学園とは無関係)に入学し、頭角をあらわした。
明治17年(1884年)、無事に大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えて貰っていたことも幸いした。ちなみにその友人は不合格であった。大学予備門時代、この時の下宿仲間に後の満鉄総裁になる中村是公がいる。明治19年(1886年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、漱石は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公と共に落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた。 本籍地は北海道に移し、兵隊検査で甲種合格になることを避けたという逸話がある。
[編集] 子規との出会い
明治22年(1889年)、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる正岡子規と、初めて出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けている。
同年9月、房州(房総半島)を旅したときの模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』(ぼくせつろく)の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後子規との交流は、漱石がイギリス留学中の明治35年(1902年)に子規が没するまで続く。
明治23年(1890年)、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義、神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立つ明治20年(1887年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・栄之助と死別。さらに直後の明治24年(1891年)には三兄・和三郎の妻の登世と死別と次々に近親者を亡くした事も影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ、心に深い傷をうけ、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。
翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などする。明治25年(1892年)、兵役を逃れるために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をしてみずから学費を稼ぎはじめる。その後、子規は大学を中退するが、漱石は松山の子規の家で、後に漱石を職業作家の道へ誘うことになる高浜虚子と出会うことになる。
[編集] イギリス留学
明治26年(1893年)、東京帝国大学を卒業し、東京高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱、強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の圓覚寺で参禅をするなどして治療をはかるも効果は得られなかった。
明治28年(1895年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高等学校)に赴任する。ちなみに、松山は子規の故郷であり、2ヶ月あまり静養していた。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。
ロンドン滞在時の夏目漱石の最後の家明治29年(1896年)、熊本県第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任後、親族の勧めもあり貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚をするが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では、この頃漱石は俳壇でも活躍し、名声を確保していく。
明治33年(1900年)5月、文部省より英文学研究のため英国留学を命ぜられる。メレディスやディケンズをよく読みあさった。『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグの個人教授を受けたり、『文学論』の研究にいそしんだりするが、英文学研究への違和感がぶりかえし神経衰弱に陥り始める。また東洋人であることでいわれなき人種差別を受け傷心し、研究が進まない苛立ちも重なったのか、何度も下宿を転々とする。
明治34年(1901年)、化学者の池田菊苗と2ヶ月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭しはじめる。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になったため、「夏目、精神を病む」という噂が流れる。これを文部省が耳にし、急遽帰国が命じられる。明治36年(1903年)に日本に帰国。漱石最後の下宿の反対側には、ロンドン漱石記念館が恒松郁生によって昭和59年(1984年)に設立された。漱石の下宿、出会った人びと、読んだ書籍などを展示し一般公開されている。
[編集] 朝日新聞社入社と文豪への道
帰国後、漱石は第一高等学校(一高)と(小泉八雲の後任として)東京帝国大学から講師として招かれる。しかし、東京帝国大学では学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳の滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2ヶ月別居する。明治37年(1904年)には、明治大学の講師も務める。
その年の暮れ、虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる「吾輩は猫である」を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。明治38年(1905年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後「倫敦塔」「坊つちやん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。
明治39年(1906年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木三重吉が毎週の面会日を木曜日と定めた。これが後の「木曜会」の起こりである。その門下には内田百間、野上弥生子、さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。
明治40年(1907年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品「虞美人草」の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。明治42年(1909年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。
[編集] 修善寺の大患
東京・早稲田にある夏目漱石の銅像明治43年(1910年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期3部作の3作目にあたる「門」を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血をおこし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。
同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。明治44年(1911年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の湯川胃腸病院(のちに湯川秀樹が婿養子となる)に入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。大正元年(1912年)9月、痔の再手術。同年12月には、「行人」も病気のため初めて執筆を中絶する。大正2年(1913年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月ごろまで悩まされる。大正3年(1914年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間の利己を追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。
大正4年(1915年)3月、京都へ遊び、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、「道草」の連載を開始。大正5年(1916年)には糖尿病にも悩まされる。その年の12月9日、大内出血を起こし「明暗」執筆途中に死去(49歳)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここにみずをかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。
漱石の死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園。
[編集] 年譜
※日付は明治4年までは旧暦
慶応3年(1867年)1月5日、江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)で、夏目小兵衛直克、千枝の五男として生まれる。生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されるが、すぐに連れ戻される。
明治元年(1868年)、塩原昌之助の養子になる。
明治3年(1870年)、この頃種痘から疱瘡にかかり、薄く痘の痕が顔に残る。[2]「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌につくられるほど、痘痕は目立ったらしい。
明治7年(1874年)、公立戸田学校下等小学第八級に入学。
明治9年(1876年)、公立市谷学校下等小学第四級に転校。
明治11年(1878年)
4月、市谷学校上等小学第八級を卒業。
10月、錦華小学校・小学尋常科二級後期卒業。
明治12年(1879年)、東京府立第一中学校正則科(日比谷高校の前身)に入学。
明治14年(1881年)、実母死去。第一中学退学。私立二松学舎に入学。
明治16年(1883年)、神田駿河台の成立学舎に入学。
明治17年(1884年)、大学予備門(明治19年(1886年)に第一高等中学校(後の第一高等学校)に名称変更)予科入学。
明治21年(1888年)、夏目家に復籍。第一高等中学校英文科入学。
明治22年(1889年)、正岡子規を知る。
明治23年(1890年)、帝国大学(後の東京帝国大学)文科大学英文科入学。『方丈記』を英訳する。
明治25年1892年)
4月、北海道後志国岩内郡吹上町に転籍し北海道平民になる。
5月、東京専門学校(現在の早稲田大学)講師に就任。
明治26年(1893年)、大学卒業。高等師範学校(後の東京高等師範学校)に勤める。神経衰弱に。
明治27年(1894年)、初期の肺結核と診断される。
明治28年(1895年)
4月、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常松山中学に赴任。
12月、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と婚約。
明治29年(1896年)
4月、熊本県の第五高等学校講師に就任。
6月、鏡子と結婚。
7月、五高教授となる。
明治30年(1897年)
6月、実父直克死去。
7月、妻鏡子流産。
明治33年(1900年)、イギリスに留学(途上でパリ万国博覧会を訪問)。
明治36年(1903年)、帰国後は一高、東京帝国大学講師に。
明治38年(1905年)、『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表、連載を始める。
明治40年(1907年)、朝日新聞社入社。職業作家としての道を歩みはじめる。
明治43年(1910年)、胃潰瘍のため大吐血、一時危篤(修善寺の大患)。
明治44年(1911年)、養父塩原に金を無心される。
2月、文学博士号辞退。
8月、関西での講演後、胃潰瘍が再発し、大阪で入院。
大正2年(1913年)、強度の神経衰弱に悩まされる。北海道から東京に転籍し東京府平民に戻る
大正4年(1915年)12月頃から、芥川龍之介などが木曜会に参加する。
大正5年(1916年)12月9日、胃潰瘍の悪化により、「明暗」執筆途中に死去。
[編集] 作品一覧
[編集] 全集
漱石全集(1993 - 1999年、岩波書店、全28巻別巻1巻)
漱石文学全集(1982 - 1983年、集英社、全10巻)
[編集] 小説
[編集] 中・長編小説
吾輩は猫である(1905年1月 - 1906年8月、『ホトトギス』/1905年10月 - 1907年5月、大倉書店・服部書店)
坊つちやん(1906年4月、『ホトトギス』/1907年、春陽堂刊『鶉籠』収録)
草枕(1906年9月、『新小説』/『鶉籠』収録)
野分(1907年1月、『ホトトギス』/1908年、春陽堂刊『草合』収録)
虞美人草(1907年6月 - 10月、『朝日新聞』/1908年1月、春陽堂)
坑夫(1908年1月 - 4月、『朝日新聞』/『草合』収録)
三四郎(1908年9 - 12月、『朝日新聞』/1909年5月、春陽堂)
それから(1909年6 - 10月、『朝日新聞』/1910年1月、春陽堂)
門(1910年3月 - 6月、『朝日新聞』/1911年1月、春陽堂)
彼岸過迄(1912年1月 - 4月、『朝日新聞』/1912年9月、春陽堂)
行人(1912年12月 - 1913年11月、『朝日新聞』/1914年1月、大倉書店)
こゝろ(1914年4月 - 8月、『朝日新聞』/1914年9月、岩波書店)
道草(1915年6月 - 9月、『朝日新聞』/1915年10月、岩波書店)
明暗(1916年5月 - 12月、『朝日新聞』/1917年1月、岩波書店)
[編集] 短編小説・小品
倫敦塔(1905年1月、『帝国文学』/1906年、大倉書店・服部書店刊『漾虚集』収録)
幻影の盾(1905年4月、『ホトトギス』/『漾虚集』)
琴のそら音(1905年7月、『七人』/『漾虚集』収録)
一夜(1905年9月、『中央公論』/『漾虚集』収録)
薤露行(1905年9月、『中央公論』/『漾虚集』収録)
趣味の遺伝(1906年1月、『帝国文学』/『漾虚集』収録)
二百十日(1906年10月、『中央公論』/『鶉籠』収録)
文鳥(1908年6月、『大阪朝日』/1910年、春陽堂刊『四篇』収録)
夢十夜(1908年7月 - 8月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
永日小品(1909年1月 - 3月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
[編集] 評論・エッセー・講演など
評論
文学論(1907年5月、大倉書店・服部書店)
文学評論(1909年3月、春陽堂)
随筆
思ひ出すことなど(1910 - 11年、『朝日新聞』/1911年8月、春陽堂刊『切抜帖より』収録)
硝子戸の中(1915年1月 - 2月、『朝日新聞』/1915年3月、岩波書店)
講演
現代日本の開化(1911年、和歌山県会議事堂/1911年11月、朝日新聞合資会社刊『朝日講演集』収録)
私の個人主義(1914年)
紀行
カーライル博物館(1905年、『学鐙』/『漾虚集』収録)
満韓ところどころ(1909年10月 - 12月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
句集・詩集
漱石俳句集(1917年11月、岩波書店)
漱石詩集 印譜附(1919年6月、岩波書店)
新体詩
従軍行(1904年5月、『帝国文学』10巻5号)
[編集] 家族 親族
夏目家
家紋(定紋)は井桁に菊。※『硝子戸の中』に関連する記述あり。
妻 - 夏目鏡子
息子 - 夏目純一(バイオリニスト)、夏目伸六(随筆家)
娘婿 - 松岡譲(作家、長女筆子の夫)
孫 - 夏目房之介(漫画家、漫画批評家、漫画学研究者)、半藤末利子(エッセイスト)、松岡陽子マックレイン(オレゴン大学名誉教授)[3]
曾孫 - 夏目一人(実業家、伸六の孫)、夏目倫之介(イラストレーター、房之介の子)
[編集] 門下生
五言絶句 夏目漱石書赤木桁平
芥川龍之介
阿部次郎
安倍能成
岩波茂雄
内田百間
小宮豊隆
鈴木三重吉
寺田寅彦
中勘助
野上臼川
野上弥生子
野間真綱
林原耒井
松岡譲
松根東洋城
皆川正禧
森田草平
[編集] その他
[編集] 漱石と病気
漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。『硝子戸の中』のように直接自身の病気に言及した作品以外にも、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が胃弱だったり、『明暗』が痔の診察の場面で始まっていたりするなど、小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数ある。
下戸だったが、胃弱であるにもかかわらずビフテキや中華料理などの脂っこい食事を好み、療養中には当時、貴重品だったアイスクリームを欲しがり周囲を困らせたこともある。当時出回り始めたジャムもお気に入りで毎日のように舐め、医師に止められるほどだったという(「吾輩は-」には1ヶ月に8缶も舐めたとの記述がある)。
胃弱が原因で頻繁に放屁をしたが、その音が破れ障子に風が吹き付ける音にそっくりだったことから、破障子なる落款を作り、使用していたことがある。
[編集] 精神医学上の研究対象
漱石は、生前に神経衰弱やうつ病を患っているが、このことが当時のエリート層の一員であり、最上級のインテリでもあった漱石の生涯および作品に対して如何に影響を及ぼしているのかが、精神医学者の格好の研究対象となっており、実際にこれを主題としたいくつかの学術論文が発表されている。
[編集] 神格化
「晩年の漱石は修善寺の大患を経て心境的な変化に至った」とは、後の多くの批評家、研究家によって語られた論評である。また、この心境を表す漱石自身の言葉として「則天去私」という語句が広く知られ、広辞苑にも紹介されている。 しかしながら、この「則天去私」という語は漱石自身が文章に残した訳ではなく、漱石の発言を弟子達が書き残したものであり、その意味は必ずしも明確ではない(人が生きるうえでの指針のように捉える説と、創作上の態度と捉える説などがある)。故人を神格化し、権威を与えるように使われてきた語だとする説もある。
[編集] 言葉遊び
夏目漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字等言葉遊びの多用が見られる。例「単簡」(簡単)、「笑談」(冗談)、「八釜しい」(やかましい)、「非道い」(ひどい)、「浪漫」(ロマン)、「沢山」(たくさん)等。「兎に角」(とにかく)のように一般的な用法として定着したものもある。
[編集] 造語
「新陳代謝」、「反射」、「無意識」、「価値」、「電力」、「肩が凝る」等は夏目漱石の造語である。 特に「肩凝り」と呼ばれるものは日本人特有の症状であり、外国ではあまり知られていない。漱石が「肩が凝る」という言葉を作ったがために、多くの日本人がこの症状を自覚するようになったと言われる。
[編集] 漢詩
日本人が作った漢詩は中国語での発音を意識していないため、中国人には上手な漢詩とはされにくい。だが、漱石の漢詩は中国語で発音しても美しい [4]とされ、2006年には「中国語で聞く 夏目漱石漢詩選」(耕文社)というCDつきの書籍も出版されている。
[編集] 海外での評価
日本での絶大な名声に比較すると、海外、とりわけ欧米での知名度はそれほど高いとはいえない(中国・韓国では比較的よく知られてはいるが)。グレン・グールドはアラン・ターニーによる英訳の『草枕』を愛読しており、自らラジオ番組で朗読したことがある。また、スーザン・ソンタグは『Where the Stress Falls』のなかで漱石について知られざる巨匠として高く評価している。
[編集] 脚注
^ 原武哲『喪章を着けた千円札の漱石―伝記と考証』(笠間書院 2003年 ISBN 978-4305702548)によれば9月19日と推測している。
^ 彼は其所で疱瘡をした。大きくなつて聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘ひ出したのだといふ話であつた。彼は暗い簾子のうちで転げ廻つた。身の肉を所嫌はず掻きむしつて泣き叫んだ。〉「道草」(39)
^ 松岡陽子マックレインの息子(米国籍)は、息子(つまり漱石の玄孫)のミドルネームに Soseki と命名した。
^ 一橋大学・景(加藤)慧(Jing,Hui)ら)
[編集] 参考文献
江藤淳『漱石とその時代』(1970年 - 99年、新潮選書)
1部 ISBN 4106001268、2部 ISBN 4106001276、3部 ISBN 410600447X、4部 ISBN 4106005050、5部 ISBN 4106005751
長尾剛『漱石ゴシップ』(1993年、ネスコ)ISBN 4167336065
小谷野敦『夏目漱石を江戸から読む』(1995年、中公新書)ISBN 412101233X
小森陽一『漱石を読みなおす』(1995年、ちくま新書)ISBN 4480056378
柄谷行人『漱石論集成(増補版)』(1997年、平凡社ライブラリー)ISBN 4582764029
秋山豊『漱石という生き方』(2006年、トランスビュー)ISBN 4901510398
神山睦美『夏目漱石は思想家である』(2007年、思潮社)ISBN 4783716358
三浦雅士『漱石 母に愛されなかった子』(2008年、岩波新書)ISBN 4004311294
夏目鏡子『漱石の思い出』(1966年、角川書店)ISBN 404100201X ,(1994年 文春文庫)ISBN 4167208024
[編集] 映像化作品
1935年『吾輩は猫である』(PCL、監督:山本嘉次郎)
1953年『坊っちゃん』(東宝、監督:丸山誠治)
1955年『こゝろ』(監督:市川崑)
1955年『三四郎』(監督:中川信夫)
1958年『坊っちゃん』(監督:番匠義彰)
1966年『坊っちゃん』(監督:市村泰一)
1973年『心』(原作「こゝろ」監督:新藤兼人)
1975年『吾輩は猫である』(監督:市川崑)
1977年『坊っちゃん』(監督:前田陽一)
1985年『それから』(監督:森田芳光)
2006年『ユメ十夜』(監督:山口雄大)
[編集] 関連項目
ウィキクォートに夏目漱石に関する引用句集があります。ウィキブックスに夏目漱石関連の教科書や解説書があります。岩波書店
愛媛県立松山東高等学校
高等遊民
耳納スカイライン
ラファエル・フォン・ケーベル
夏目吉信 - 漱石の先祖。三河松平家に仕え、徳川家康の忠臣として知られる。
[編集] 外部リンク
[編集] オンライン・テクスト
東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ
漱石文学・その他の研究
夏目 漱石:作家別作品リスト(青空文庫)
夏目漱石 作品リスト(近代デジタルライブラリー)
[編集] 施設など
熊本漱石館
倫敦(ロンドン)漱石記念館
夏目漱石内坪井旧居
博物館「明治村」
[編集] 写真・肖像
写真家・小川一真(たばこと塩の博物館)
沿線ゆかりの人(とうよこ沿線フィルムライブラリー)
[編集] その他
夏目氏系譜
夏目漱石のお墓
[隠す]表・話・編・歴夏目漱石の作品
中・長編小説 吾輩は猫である - 坊つちやん - 草枕 - 二百十日 - 野分 - 虞美人草 - 坑夫 - 三四郎 - それから - 門 - 彼岸過迄 - 行人 - こゝろ - 道草 - 明暗
短編小説・小品 倫敦塔 - 幻影の盾 - 琴のそら音 - 一夜 - 薤露行 - 趣味の遺伝 - 夢十夜 - 永日小品
その他の作品 現代日本の開化 - 私の個人主義 - 硝子戸の中
関連項目 高等遊民
関連カテゴリ 夏目漱石 - 小説
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カテゴリ: 夏目漱石 | 日本の小説家 | 日本の文芸評論家 | イギリス文学者 | 俳人 | 日本の漢詩人 | 明治時代の人物 | 紙幣の人物 | 朝日新聞社の人物 | 東京都出身の人物 | 1867年生 | 1916年没
最終更新 2008年10月9日 (木) 06:39。
調べもの新聞 【夏目漱石】
高大連携情報誌調べもの新聞
『大学受験ニュース』(ブログ版)
【夏目漱石】
1912年9月13日(明治天皇の大喪の礼の日)[1]
誕生 1867年2月9日
江戸牛込馬場下横町
死没 1916年12月9日
東京
職業 小説家、評論家、英文学者
ジャンル 小説、俳句、漢詩、評論
文学活動 余裕派、反自然主義文学
影響を与えたもの[表示]
多くの日本の作家
表・話・編・歴
文学
ポータル
各国の文学
記事総覧
出版社・文芸雑誌
文学賞
作家
詩人・小説家
その他作家
夏目 漱石(なつめ そうせき、慶応3年1月5日(1867年2月9日) - 大正5年(1916年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助。『吾輩は猫である』『こゝろ』などの作品で広く知られる、森鴎外と並ぶ明治・大正時代の文豪である。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後に東京帝国大学)英文科卒業後、松山中学などの教師を務めた後、イギリスへ留学。帰国後東大講師を勤めながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊つちやん」「倫敦塔」などを書く。その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。
「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私」(そくてんきょし)の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。
昭和59年(1984年)から平成16年(2004年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。
目次 [非表示]
1 経歴
1.1 幼少期
1.2 子規との出会い
1.3 イギリス留学
1.4 朝日新聞社入社と文豪への道
1.5 修善寺の大患
2 年譜
3 作品一覧
3.1 全集
3.2 小説
3.2.1 中・長編小説
3.2.2 短編小説・小品
3.3 評論・エッセー・講演など
4 家族 親族
5 門下生
6 その他
6.1 漱石と病気
6.2 精神医学上の研究対象
6.3 神格化
6.4 言葉遊び
6.5 造語
6.6 漢詩
6.7 海外での評価
7 脚注
8 参考文献
9 映像化作品
10 関連項目
11 外部リンク
11.1 オンライン・テクスト
11.2 施設など
11.3 写真・肖像
11.4 その他
[編集] 経歴
[編集] 幼少期
慶応3年1月5日(1867年2月9日)、江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子として出生。母は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、漱石は望まれない子として生まれたといえる。金之助という名前は、生まれた日が庚申の日(この日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。また3歳頃に罹った疱瘡により傷痕は目立つほどに残ることとなった。
当時は江戸幕府崩壊後の混乱期であり生家は名主として没落しつつあったのか、生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い実家へ連れ戻した。その後、1歳の時に父親の友人である塩原昌之助の養子に出された。しかし、養父昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり、7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいた。養父母の離婚により、9歳の時、生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少時は波乱に満ちていた。この養父昌之助には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。
家庭のごたごたのなか市ヶ谷学校を経て錦華小学校と小学校を転校していた漱石だったが、錦華小学校への転校理由は東京府第一中学への入学が目的であった。12歳の時、東京府第一中学正則科(のちの府立一中、現在の日比谷高校)に入学。しかし、大学予備門受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため2年ほどで中退した。中退ののちも長兄・大助に咎められるのを嫌い弁当をもって一中に通う振りをしていた。のち漢学私塾二松学舎に入学する。ここで後の小説で見られる儒教的な倫理観、東洋的美意識や江戸的感性が磨かれていく。しかし、ここも数ヶ月で中退。長兄・大助が文学を志すことに反対したためでもある。長兄は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来の良かった末弟の金之助を見込み、大学を出て立身出世をさせることで夏目家再興の願いを果たそうとしていた。
2年後の明治16年(1883年)、大学予備門(のちの一高)を受験するには英語が必須であったため神田駿河台の英学塾成立学舎(現在の成立学園とは無関係)に入学し、頭角をあらわした。
明治17年(1884年)、無事に大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えて貰っていたことも幸いした。ちなみにその友人は不合格であった。大学予備門時代、この時の下宿仲間に後の満鉄総裁になる中村是公がいる。明治19年(1886年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、漱石は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公と共に落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた。 本籍地は北海道に移し、兵隊検査で甲種合格になることを避けたという逸話がある。
[編集] 子規との出会い
明治22年(1889年)、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる正岡子規と、初めて出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けている。
同年9月、房州(房総半島)を旅したときの模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』(ぼくせつろく)の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後子規との交流は、漱石がイギリス留学中の明治35年(1902年)に子規が没するまで続く。
明治23年(1890年)、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義、神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立つ明治20年(1887年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・栄之助と死別。さらに直後の明治24年(1891年)には三兄・和三郎の妻の登世と死別と次々に近親者を亡くした事も影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ、心に深い傷をうけ、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。
翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などする。明治25年(1892年)、兵役を逃れるために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をしてみずから学費を稼ぎはじめる。その後、子規は大学を中退するが、漱石は松山の子規の家で、後に漱石を職業作家の道へ誘うことになる高浜虚子と出会うことになる。
[編集] イギリス留学
明治26年(1893年)、東京帝国大学を卒業し、東京高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱、強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の圓覚寺で参禅をするなどして治療をはかるも効果は得られなかった。
明治28年(1895年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高等学校)に赴任する。ちなみに、松山は子規の故郷であり、2ヶ月あまり静養していた。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。
ロンドン滞在時の夏目漱石の最後の家明治29年(1896年)、熊本県第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任後、親族の勧めもあり貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚をするが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では、この頃漱石は俳壇でも活躍し、名声を確保していく。
明治33年(1900年)5月、文部省より英文学研究のため英国留学を命ぜられる。メレディスやディケンズをよく読みあさった。『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグの個人教授を受けたり、『文学論』の研究にいそしんだりするが、英文学研究への違和感がぶりかえし神経衰弱に陥り始める。また東洋人であることでいわれなき人種差別を受け傷心し、研究が進まない苛立ちも重なったのか、何度も下宿を転々とする。
明治34年(1901年)、化学者の池田菊苗と2ヶ月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭しはじめる。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になったため、「夏目、精神を病む」という噂が流れる。これを文部省が耳にし、急遽帰国が命じられる。明治36年(1903年)に日本に帰国。漱石最後の下宿の反対側には、ロンドン漱石記念館が恒松郁生によって昭和59年(1984年)に設立された。漱石の下宿、出会った人びと、読んだ書籍などを展示し一般公開されている。
[編集] 朝日新聞社入社と文豪への道
帰国後、漱石は第一高等学校(一高)と(小泉八雲の後任として)東京帝国大学から講師として招かれる。しかし、東京帝国大学では学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳の滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2ヶ月別居する。明治37年(1904年)には、明治大学の講師も務める。
その年の暮れ、虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる「吾輩は猫である」を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。明治38年(1905年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後「倫敦塔」「坊つちやん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。
明治39年(1906年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉、森田草平などが出入りしていたが、鈴木三重吉が毎週の面会日を木曜日と定めた。これが後の「木曜会」の起こりである。その門下には内田百間、野上弥生子、さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成などの学者がいる。
明治40年(1907年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品「虞美人草」の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。明治42年(1909年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。
[編集] 修善寺の大患
東京・早稲田にある夏目漱石の銅像明治43年(1910年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期3部作の3作目にあたる「門」を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血をおこし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。
同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。明治44年(1911年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の湯川胃腸病院(のちに湯川秀樹が婿養子となる)に入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。大正元年(1912年)9月、痔の再手術。同年12月には、「行人」も病気のため初めて執筆を中絶する。大正2年(1913年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月ごろまで悩まされる。大正3年(1914年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間の利己を追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。
大正4年(1915年)3月、京都へ遊び、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、「道草」の連載を開始。大正5年(1916年)には糖尿病にも悩まされる。その年の12月9日、大内出血を起こし「明暗」執筆途中に死去(49歳)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここにみずをかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。
漱石の死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園。
[編集] 年譜
※日付は明治4年までは旧暦
慶応3年(1867年)1月5日、江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)で、夏目小兵衛直克、千枝の五男として生まれる。生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されるが、すぐに連れ戻される。
明治元年(1868年)、塩原昌之助の養子になる。
明治3年(1870年)、この頃種痘から疱瘡にかかり、薄く痘の痕が顔に残る。[2]「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌につくられるほど、痘痕は目立ったらしい。
明治7年(1874年)、公立戸田学校下等小学第八級に入学。
明治9年(1876年)、公立市谷学校下等小学第四級に転校。
明治11年(1878年)
4月、市谷学校上等小学第八級を卒業。
10月、錦華小学校・小学尋常科二級後期卒業。
明治12年(1879年)、東京府立第一中学校正則科(日比谷高校の前身)に入学。
明治14年(1881年)、実母死去。第一中学退学。私立二松学舎に入学。
明治16年(1883年)、神田駿河台の成立学舎に入学。
明治17年(1884年)、大学予備門(明治19年(1886年)に第一高等中学校(後の第一高等学校)に名称変更)予科入学。
明治21年(1888年)、夏目家に復籍。第一高等中学校英文科入学。
明治22年(1889年)、正岡子規を知る。
明治23年(1890年)、帝国大学(後の東京帝国大学)文科大学英文科入学。『方丈記』を英訳する。
明治25年1892年)
4月、北海道後志国岩内郡吹上町に転籍し北海道平民になる。
5月、東京専門学校(現在の早稲田大学)講師に就任。
明治26年(1893年)、大学卒業。高等師範学校(後の東京高等師範学校)に勤める。神経衰弱に。
明治27年(1894年)、初期の肺結核と診断される。
明治28年(1895年)
4月、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常松山中学に赴任。
12月、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と婚約。
明治29年(1896年)
4月、熊本県の第五高等学校講師に就任。
6月、鏡子と結婚。
7月、五高教授となる。
明治30年(1897年)
6月、実父直克死去。
7月、妻鏡子流産。
明治33年(1900年)、イギリスに留学(途上でパリ万国博覧会を訪問)。
明治36年(1903年)、帰国後は一高、東京帝国大学講師に。
明治38年(1905年)、『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表、連載を始める。
明治40年(1907年)、朝日新聞社入社。職業作家としての道を歩みはじめる。
明治43年(1910年)、胃潰瘍のため大吐血、一時危篤(修善寺の大患)。
明治44年(1911年)、養父塩原に金を無心される。
2月、文学博士号辞退。
8月、関西での講演後、胃潰瘍が再発し、大阪で入院。
大正2年(1913年)、強度の神経衰弱に悩まされる。北海道から東京に転籍し東京府平民に戻る
大正4年(1915年)12月頃から、芥川龍之介などが木曜会に参加する。
大正5年(1916年)12月9日、胃潰瘍の悪化により、「明暗」執筆途中に死去。
[編集] 作品一覧
[編集] 全集
漱石全集(1993 - 1999年、岩波書店、全28巻別巻1巻)
漱石文学全集(1982 - 1983年、集英社、全10巻)
[編集] 小説
[編集] 中・長編小説
吾輩は猫である(1905年1月 - 1906年8月、『ホトトギス』/1905年10月 - 1907年5月、大倉書店・服部書店)
坊つちやん(1906年4月、『ホトトギス』/1907年、春陽堂刊『鶉籠』収録)
草枕(1906年9月、『新小説』/『鶉籠』収録)
野分(1907年1月、『ホトトギス』/1908年、春陽堂刊『草合』収録)
虞美人草(1907年6月 - 10月、『朝日新聞』/1908年1月、春陽堂)
坑夫(1908年1月 - 4月、『朝日新聞』/『草合』収録)
三四郎(1908年9 - 12月、『朝日新聞』/1909年5月、春陽堂)
それから(1909年6 - 10月、『朝日新聞』/1910年1月、春陽堂)
門(1910年3月 - 6月、『朝日新聞』/1911年1月、春陽堂)
彼岸過迄(1912年1月 - 4月、『朝日新聞』/1912年9月、春陽堂)
行人(1912年12月 - 1913年11月、『朝日新聞』/1914年1月、大倉書店)
こゝろ(1914年4月 - 8月、『朝日新聞』/1914年9月、岩波書店)
道草(1915年6月 - 9月、『朝日新聞』/1915年10月、岩波書店)
明暗(1916年5月 - 12月、『朝日新聞』/1917年1月、岩波書店)
[編集] 短編小説・小品
倫敦塔(1905年1月、『帝国文学』/1906年、大倉書店・服部書店刊『漾虚集』収録)
幻影の盾(1905年4月、『ホトトギス』/『漾虚集』)
琴のそら音(1905年7月、『七人』/『漾虚集』収録)
一夜(1905年9月、『中央公論』/『漾虚集』収録)
薤露行(1905年9月、『中央公論』/『漾虚集』収録)
趣味の遺伝(1906年1月、『帝国文学』/『漾虚集』収録)
二百十日(1906年10月、『中央公論』/『鶉籠』収録)
文鳥(1908年6月、『大阪朝日』/1910年、春陽堂刊『四篇』収録)
夢十夜(1908年7月 - 8月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
永日小品(1909年1月 - 3月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
[編集] 評論・エッセー・講演など
評論
文学論(1907年5月、大倉書店・服部書店)
文学評論(1909年3月、春陽堂)
随筆
思ひ出すことなど(1910 - 11年、『朝日新聞』/1911年8月、春陽堂刊『切抜帖より』収録)
硝子戸の中(1915年1月 - 2月、『朝日新聞』/1915年3月、岩波書店)
講演
現代日本の開化(1911年、和歌山県会議事堂/1911年11月、朝日新聞合資会社刊『朝日講演集』収録)
私の個人主義(1914年)
紀行
カーライル博物館(1905年、『学鐙』/『漾虚集』収録)
満韓ところどころ(1909年10月 - 12月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
句集・詩集
漱石俳句集(1917年11月、岩波書店)
漱石詩集 印譜附(1919年6月、岩波書店)
新体詩
従軍行(1904年5月、『帝国文学』10巻5号)
[編集] 家族 親族
夏目家
家紋(定紋)は井桁に菊。※『硝子戸の中』に関連する記述あり。
妻 - 夏目鏡子
息子 - 夏目純一(バイオリニスト)、夏目伸六(随筆家)
娘婿 - 松岡譲(作家、長女筆子の夫)
孫 - 夏目房之介(漫画家、漫画批評家、漫画学研究者)、半藤末利子(エッセイスト)、松岡陽子マックレイン(オレゴン大学名誉教授)[3]
曾孫 - 夏目一人(実業家、伸六の孫)、夏目倫之介(イラストレーター、房之介の子)
[編集] 門下生
五言絶句 夏目漱石書赤木桁平
芥川龍之介
阿部次郎
安倍能成
岩波茂雄
内田百間
小宮豊隆
鈴木三重吉
寺田寅彦
中勘助
野上臼川
野上弥生子
野間真綱
林原耒井
松岡譲
松根東洋城
皆川正禧
森田草平
[編集] その他
[編集] 漱石と病気
漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。『硝子戸の中』のように直接自身の病気に言及した作品以外にも、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が胃弱だったり、『明暗』が痔の診察の場面で始まっていたりするなど、小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数ある。
下戸だったが、胃弱であるにもかかわらずビフテキや中華料理などの脂っこい食事を好み、療養中には当時、貴重品だったアイスクリームを欲しがり周囲を困らせたこともある。当時出回り始めたジャムもお気に入りで毎日のように舐め、医師に止められるほどだったという(「吾輩は-」には1ヶ月に8缶も舐めたとの記述がある)。
胃弱が原因で頻繁に放屁をしたが、その音が破れ障子に風が吹き付ける音にそっくりだったことから、破障子なる落款を作り、使用していたことがある。
[編集] 精神医学上の研究対象
漱石は、生前に神経衰弱やうつ病を患っているが、このことが当時のエリート層の一員であり、最上級のインテリでもあった漱石の生涯および作品に対して如何に影響を及ぼしているのかが、精神医学者の格好の研究対象となっており、実際にこれを主題としたいくつかの学術論文が発表されている。
[編集] 神格化
「晩年の漱石は修善寺の大患を経て心境的な変化に至った」とは、後の多くの批評家、研究家によって語られた論評である。また、この心境を表す漱石自身の言葉として「則天去私」という語句が広く知られ、広辞苑にも紹介されている。 しかしながら、この「則天去私」という語は漱石自身が文章に残した訳ではなく、漱石の発言を弟子達が書き残したものであり、その意味は必ずしも明確ではない(人が生きるうえでの指針のように捉える説と、創作上の態度と捉える説などがある)。故人を神格化し、権威を与えるように使われてきた語だとする説もある。
[編集] 言葉遊び
夏目漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字等言葉遊びの多用が見られる。例「単簡」(簡単)、「笑談」(冗談)、「八釜しい」(やかましい)、「非道い」(ひどい)、「浪漫」(ロマン)、「沢山」(たくさん)等。「兎に角」(とにかく)のように一般的な用法として定着したものもある。
[編集] 造語
「新陳代謝」、「反射」、「無意識」、「価値」、「電力」、「肩が凝る」等は夏目漱石の造語である。 特に「肩凝り」と呼ばれるものは日本人特有の症状であり、外国ではあまり知られていない。漱石が「肩が凝る」という言葉を作ったがために、多くの日本人がこの症状を自覚するようになったと言われる。
[編集] 漢詩
日本人が作った漢詩は中国語での発音を意識していないため、中国人には上手な漢詩とはされにくい。だが、漱石の漢詩は中国語で発音しても美しい [4]とされ、2006年には「中国語で聞く 夏目漱石漢詩選」(耕文社)というCDつきの書籍も出版されている。
[編集] 海外での評価
日本での絶大な名声に比較すると、海外、とりわけ欧米での知名度はそれほど高いとはいえない(中国・韓国では比較的よく知られてはいるが)。グレン・グールドはアラン・ターニーによる英訳の『草枕』を愛読しており、自らラジオ番組で朗読したことがある。また、スーザン・ソンタグは『Where the Stress Falls』のなかで漱石について知られざる巨匠として高く評価している。
[編集] 脚注
^ 原武哲『喪章を着けた千円札の漱石―伝記と考証』(笠間書院 2003年 ISBN 978-4305702548)によれば9月19日と推測している。
^ 彼は其所で疱瘡をした。大きくなつて聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘ひ出したのだといふ話であつた。彼は暗い簾子のうちで転げ廻つた。身の肉を所嫌はず掻きむしつて泣き叫んだ。〉「道草」(39)
^ 松岡陽子マックレインの息子(米国籍)は、息子(つまり漱石の玄孫)のミドルネームに Soseki と命名した。
^ 一橋大学・景(加藤)慧(Jing,Hui)ら)
[編集] 参考文献
江藤淳『漱石とその時代』(1970年 - 99年、新潮選書)
1部 ISBN 4106001268、2部 ISBN 4106001276、3部 ISBN 410600447X、4部 ISBN 4106005050、5部 ISBN 4106005751
長尾剛『漱石ゴシップ』(1993年、ネスコ)ISBN 4167336065
小谷野敦『夏目漱石を江戸から読む』(1995年、中公新書)ISBN 412101233X
小森陽一『漱石を読みなおす』(1995年、ちくま新書)ISBN 4480056378
柄谷行人『漱石論集成(増補版)』(1997年、平凡社ライブラリー)ISBN 4582764029
秋山豊『漱石という生き方』(2006年、トランスビュー)ISBN 4901510398
神山睦美『夏目漱石は思想家である』(2007年、思潮社)ISBN 4783716358
三浦雅士『漱石 母に愛されなかった子』(2008年、岩波新書)ISBN 4004311294
夏目鏡子『漱石の思い出』(1966年、角川書店)ISBN 404100201X ,(1994年 文春文庫)ISBN 4167208024
[編集] 映像化作品
1935年『吾輩は猫である』(PCL、監督:山本嘉次郎)
1953年『坊っちゃん』(東宝、監督:丸山誠治)
1955年『こゝろ』(監督:市川崑)
1955年『三四郎』(監督:中川信夫)
1958年『坊っちゃん』(監督:番匠義彰)
1966年『坊っちゃん』(監督:市村泰一)
1973年『心』(原作「こゝろ」監督:新藤兼人)
1975年『吾輩は猫である』(監督:市川崑)
1977年『坊っちゃん』(監督:前田陽一)
1985年『それから』(監督:森田芳光)
2006年『ユメ十夜』(監督:山口雄大)
[編集] 関連項目
ウィキクォートに夏目漱石に関する引用句集があります。ウィキブックスに夏目漱石関連の教科書や解説書があります。岩波書店
愛媛県立松山東高等学校
高等遊民
耳納スカイライン
ラファエル・フォン・ケーベル
夏目吉信 - 漱石の先祖。三河松平家に仕え、徳川家康の忠臣として知られる。
[編集] 外部リンク
[編集] オンライン・テクスト
東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ
漱石文学・その他の研究
夏目 漱石:作家別作品リスト(青空文庫)
夏目漱石 作品リスト(近代デジタルライブラリー)
[編集] 施設など
熊本漱石館
倫敦(ロンドン)漱石記念館
夏目漱石内坪井旧居
博物館「明治村」
[編集] 写真・肖像
写真家・小川一真(たばこと塩の博物館)
沿線ゆかりの人(とうよこ沿線フィルムライブラリー)
[編集] その他
夏目氏系譜
夏目漱石のお墓
[隠す]表・話・編・歴夏目漱石の作品
中・長編小説 吾輩は猫である - 坊つちやん - 草枕 - 二百十日 - 野分 - 虞美人草 - 坑夫 - 三四郎 - それから - 門 - 彼岸過迄 - 行人 - こゝろ - 道草 - 明暗
短編小説・小品 倫敦塔 - 幻影の盾 - 琴のそら音 - 一夜 - 薤露行 - 趣味の遺伝 - 夢十夜 - 永日小品
その他の作品 現代日本の開化 - 私の個人主義 - 硝子戸の中
関連項目 高等遊民
関連カテゴリ 夏目漱石 - 小説
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最終更新 2008年10月9日 (木) 06:39。