──私には家の中が崩れていることは分かっていた。決して家族仲が良いわけではなかった。けれど、不思議なもので父が死んでからは目に見えるように家の中で発せられる音が減っていた。母は私を養おうと必死でパートを続けて、家では愚痴をこぼすことが多かった。職場で悪いことがあると、家の中の物を突然壊すこともあった。母は、始めのうちは壊した後で正気を取り戻し、無残に壊れた物を片付ける私に謝っていたが、しばらく経つうちにそれが当然だと言わんばかりに「早く片付けなさいよ」と私に文句を言ってくるようになった。
──お母さんは私のために仕事してるんじゃないの?口に出したかったけど出せなかった。そんなことを言うのは図々しい気がしたからだ。家族というのは働き手と、家の守り手と未来を紡ぎだす者の三つで成り立っている。そういう意味では私達はもう家族ではない。働き手を失い、家の守り手が代理をし、未来を紡ぎだす者が守り手になった時点で、私達は他人になった。だけど、一緒に暮らさないと私達は生きていけない。それも幻想だ。分かっている。私がバイトをして勉強もしっかりすればもう自立できる年なのだ。彼を見ていればよく分かる。母だって、私を捨てて目一杯着飾れば恋人の一人くらいできることだろう。三十代後半の母は黒髪も艶やかで、娘の私から見ても美しく聡明であると思う。
それをしないのはひとえに──父のせい、おかげというべきだろうか。父と娘の絆が、父と母の絆が間接的に私達を縛っているのだ。決して悪いことではないし、絆を残してくれた父には感謝をすべきだとも思う。だけど、私は苦しかった。こんな風にお互いを苦しめるだけの生活は辛かった。母と別れることは父に悪い。娘と別れるのは父に悪い。その呪縛が私達を苦しめている。それは父の望むところなのだろうか?と、よく思う。少なくても生きている頃の父は私達を苦しめることを望んではいなかった。家で愚痴を吐くこともなく、日曜は曇りの日でも笑いながら「遊びに行こう」と言う明るい父だった。お酒も自己を見失うほど飲まず、ほろ酔い状態で私達を笑わせた。煙草は私達に害を及ぼすからと決して吸わない人だった。
ただ、死ぬ間際は分からない。ただでさえ、死ぬ瞬間というのは自分のことで一杯一杯だろう。今までの苦労を、楽しさをそれこそ走馬灯のように感じるのだから。──これから先の楽しみのためにしてきた苦労が報われなかった悲しみが、彼に恨みを与えたりしなかっただろうか?彼は休みの日に行った登山で崖から落ち、脳死の診断結果での死だった。脳死の後、すぐに父はドナーとして多くの人と生を共にすることになった。私と母には高い入院費を払えなかったからだ。そのことを彼は恨んではいないだろうか。必死に働いて私達を守った結果がこれか?と嘆いてはいないだろうか。父が考えたことを考えても、それは決して分からない。父はもう居ないのだから、疑問を確かめることは不可能なのだ。
だから、父との絆を失いたくなかったから、私は母の思惑を受けようとしていた。もう生きる希望が持てなかった。違う。正確に言えばどうでも良かった。逃げたくても逃げられないのだ。私の気持ちなんか少しも反映されない。馬鹿馬鹿しい。せっかく彼氏が出来たっていうのに。初めて彼に話しかけたとき、私は嘘をついた。本当のことを言っていたが、本心を言えば、最近両親を亡くした彼がどんな風になってしまったのかを見たかったのだ。私は彼に哀れみと羨ましさを持って接した。そして知らないうちに惹かれていた。自分でもどうしようもないくらいに彼のことを好きになっていた。死んだ親に縛られているという点で私達は同一的な存在なのだ。惹かれない方がおかしかった。告白したのは同時だった。空気の澄んだ秋の夜、冷たい空気が肺の中を洗い月がぽっかりと漆黒のヴェールに穴を開けていて、遠くからどこかロマンチックな音楽が聞こえる小さな山の上でのことだ。まだ空の端が橙色で彼の家がよく見えた。私達はベンチに座りながら彼の家を見つめ、彼の顔を見た。彼は消え入りそうな顔をしていた。両親が死んでから、まだ一週間しか経っていないのだ。当然だと割り切ろうともしたが、私は彼に笑ってもらいたかった。だから、「好きです」と言った。彼も同時に言ったのに気付いて、何だかおかしくなって一緒に笑った。あのころはまだ心の底から笑うことができた。
彼は私が居なくなっても生きていけるだろうか。それが心配だった。自分で言うのもなんだが、もし私が居なくなったとしたら彼は最愛の人を全て失うことになる。それは悲しすぎる現実ではないだろうか。だから私は彼のために一つの鍵を作ろうと思った。私は母の思惑に乗ろうと思っていたが、この鍵を作ろうと決心したときからその気持ちは露へと消えた。ただ、消える方法はまだ決めていなかった。そして世界はそれを悟ったかのように私にその光景を見せた。幸せそうだった家族が崩壊していく瞬間を、私の大事な人の全てを救える機会を、私に与えたのだ。その時、私の気持ちは一つに染まった。
☆ ☆
「どうしてこんなことをしたのですか?」
医者は俺に問いかけた。若い女医だった。あの後瑠奈は病院に運ばれたが、すぐに死を宣告され家へと運ばれ、男は後から来た警察に捕まえられて、警察署に連行された、と聞いた。
俺は警察病院に連れてこられて、裂けた傷を縫い、砕けた骨をギプスを巻いて三角巾で固定するという簡単な治療をうけ、事情聴取を受けていた。
急に悲しさが溢れて涙が落ちた。手を握り締めようとする。けれど、心地よい手の痛みは俺に訪れなかった。利き手の力は瑠奈の死に場所に置いてきた。神経を傷つけたらしい。骨がくっついても握力は以前の半分以下になると言われた。それがたまらなく悔しかった。あんな男のために全てを失ったのだ。視界が曇り、思考は滞る。全てが霧に包まれたようにはっきりせず、けれど、大事だと定義されたモノはしっかりと目のうちに映っていた。
「答えてください。彼はこの件をもみ消すかもしれないんです。そんなこと許すわけにはいかないでしょう?あなたのためにも、彼女のためにも、事故の原因を調べて彼を告訴しないと」
しっかりとした声だった。どこか切実な願いを感じる声だった。それでも、俺は心を閉ざしていた。今もはっきりと残っているんだ。瑠奈の最後の言葉、凛と澄んだ声、可愛らしい顔、少しパーマのかかった純黒の髪の毛。そして、この手から失われていく生命の灯火。どうしようもなかったか?俺があのタイミングでプレゼントを渡さなかったら。瑠奈が帽子をとりに行く間に車に目を向けていたら。瑠奈は今も俺の隣で笑っていたかもしれない。澄んだ青空。黄昏の夕陽。そして、漆黒の夜の始まり。三色のグラデーションを今頃公園のベンチで眺めていたかもしれない。どうして──
また、自然と涙がこぼれて外出用のジーンズを濡らした。それを見て女医は、手を握り締め俯くとこう言った。
「しゃきっとしなさい!!」
急に診察室に大きな声が響いた。
「そんなことを考えたってもう遅いの!今を最善に生きなさい!それが、私達に唯一できることじゃないの!?それともあなたは彼女に泣き崩れている今の姿を見せたいの!」
バンっと机を叩き、女医は立ち上がった。
そんなことは分かっていた。見せたくないに決まってる。だけど、瑠奈はもうこの世に居ないんだ。居ないから見せられる。本当はずっと見せないで生きたかった。でも、それも叶わない。俺には瑠奈が居ない悲しみを、一度も心を乱さずに受け止めることなどできないのだから。
「分かってるんだ。瑠奈がこの世に帰ってこないことを。でも、だからこそ、あいつが捕まっても俺は嬉しくない。余りある金を彼女の親と、俺とに渡してすぐに立ち去ろうとする奴を、訴えることも、訴えないことも、瑠奈の生への冒涜に繋がる気がするんだ」
俺の言葉に少しも笑わずに、女医は頷いて答えた。
「言いたいことはわかるわ。だけど、その後に同じ事故で出る犠牲者を増やしたいと思うかしら?」
「それは、思わない」
「そうでしょうね」
ボソリと呟いて女医は仕事を続けた。
とりあえず当面の生活費を得るつもりでいいんじゃないかしら。女医は俺に裁判を起こすことをすすめた。耳の奥では相変わらず事故の時の音が流れている。女医は書類に書き込むスピードを上げた。
☆ ☆
初めて瑠奈を見たのは高校の入学式だった。長すぎる校長先生の話が終わり、新入生退場の瞬間、一言彼女は言った。
「あー、眠かった」
なんてことはない。普通の言葉だった。ただ、初めての退場で勝手が分からずに入り口が込み合っている中、彼女の声が俺の耳から聞こえなくなることはなかった。
それから流れに逆らわずに教室に戻り、中学校の頃と同じようにできるだけ静かに過ごした。
それでも、自然と目が彼女を探した。別に彼女が他の人よりもかわいいとか、一目ぼれしたとかじゃない。この学校に入って始めて顔を、声を覚えた人だからだと思う。結局彼女とは、クラスが違った。それも、本当は知っていた。退場の時に和気合い合いと友人と話す彼女の言葉から聞いていたからだ。部活も俺が入ろうとしていたものと違ったはずだ。
俺は僅かな希望を捨てて、これからの高校生活をどうしようか?という考えにふけることにした。中学校の時は目立ちたくないのに不思議と目立ってしまった。回りにいじられることが多かったからだろうか。中学校の時は、全校生徒の中で俺の名前を知らない者はいないといっても過言では無かった。高校では静かに人並みに生きたいと心から思う。有名人になると、深く仲良くなろうという人が減る。特に女子は。自分に得を与えてくれない男子と仲良くなる女子は居ない。一緒にいれば楽しいから、とかそんな理由で有名人と一緒に居る女子は居ない。他のもっと静かなやつがいっぱい居るからだ。用は、皆、自分の醜い部分が有名になるのを極端に嫌うのだ。女子だけじゃなく男子にも言えること。だから、いいところだけ見せて友達の振りはするけど、深く接することがない。
そうやって、高校生活の目標を「静かに暮らす」に決めた時に、耳の片隅で声が聞こえた。
「……い、おい、霊宝駿、居るなら返事しろ」
はっと気付いてクラスを見渡すとクラス全員が笑っていた。また集中しすぎてしまったようだ。中学校の時にいじられはじめた理由として、集中すると何も聞こえなくなるという特性があった。俺が集中し始めた時に横で言葉を言われていると、数回の間全く聞こえないことがある。つまり、全く対策を立ててない間に難問や、恋愛話、からかいなどをささやかれていて答えられなかったり、逆に、素直に答えてしまったりした。
「はい、分かりました。……すみません。先生、俺のことは駿と呼んでください」
知られてしまっては否定することが出来ないことだ。俺は先生に自分のことを駿と呼ぶように頼んだ。霊宝なんて大それた苗字があることも、いじられる原因だったなと思う。いまさら気にもならないが一応言っておいていいかもしれない。先生は少し戸惑ってから了承して、ホームルームを進行する。しばらく経ってから、前の席の男子が話しかけてきた。
「お前、度胸あるなあ。駿だったっけ?先生に意見するなんて」
頭を刈り上げた彼は自分のことを軽く説明した。野球部で、中学校ではピッチャーをしていたこと。高校でも野球部に入ろうとしていること。およそ、初対面の人間にここまで話すものだろうか?というところまで彼は話した。気がよさそうなやつだったので、俺は彼と友達になることを決めた。
☆ ☆
──いつからだっただろうか、人との関係を頭で計算するようになったのは。
高校に入ってからはいつも、このことについて考えていた。そして、考えるたびに暗い闇に、心が踏み込んでいくのが分かった。
辛かった。気がいいから友達になろう。相手が権力を持っているから仲良くなろう。女友達がたくさん居るから顔がイマイチでも仲良くしておこう。頭がいいから仲良くしておくと便利だな。そんなことを考えている自分が居るのが、本当に辛かった。そんなことを考えたくなかった。素直になりたかった。損得だけでこの世を生きるのは嫌だ。嫌なんだ。助けてほしい。でも、誰に?誰でも良い?誰か俺を暗闇から解放してくれ。と他人任せに俺は言う。
夜、勉強を済ませてから部屋の電気を消し、深い暗闇に包まれると、俺の心の中の闇が具現化して言うんだ。
「お前は俺だ。俺がお前だ。そして、お前は俺の意思で消える」
言ってる内容は意味が分からなかった。でも、恐ろしかった。とても、怖かった。いつか、俺が消えてしまうんじゃないかって。本気で考えた。
そして、ひとつだけ理解した。
この暗闇はおれ自身なんだって。認めたくなくてもこれは本心の一部であって、表面上を生きる俺こそが不自然なんだって。そんなことが心のどこかで分かっていた。でも、自分を消して、人生を豊かに楽しむことなんて誰もがやっていることだから気にしたこともなかった。
俺の中学の頃のクラスメイト。自分の綺麗な部分だけを俺という広報機械を使って世界に示し、長く付き合うことによって醜い自分が俺によって露出しないように、常に絶妙な距離をとっていた計算高い人々。それを見るたびに羨ましかった。俺もあんなふうに要領よくこの世を生きれたらいいと思った。
思えばそのときからなのだろう。俺は自分の考えを押さえ込んだ。表面上は理想の自分、「優等生」、心の裏ではいつも冷静に全てを分析する醜い塊。本当の自分は優等生なんだって、無理やり納得していた。醜い部分は見たくなかった。冷静にこの世を分析するうちに肥大していく部分。
「うわ、こいつ気持ち悪い」「何でこんな頭いい奴がいるんだ?」「何でこんな自分より劣る奴が主役なんだ?」「こんな馬鹿な奴死ねばいいのに」
そんなことを闇が考えている。それでも、口からは優等生の俺の「清らかな言葉」が流れた。そして、「うそつきだ」と闇はいつも俺に言う。
その言葉に傷つくたびに、他人への僻みを言う闇を認めないたびに、闇は成長する。闇は本心だ。俺は偽者だ。理性という、本心を縛り付ける意思を持つ鎖だ。それはある種二重人格なのだろう。誰もが持つ二面性。それが、大きすぎるのが俺という存在。中学校の時から持っていた僻み、妬み、恨み、悲しみ。そのときはまだその感情が生まれた瞬間にどうにかして発散していた。それらが存在することを理性である俺が認めていたからだ。
だが、いつからかそれらを認められなくなっていた。何で俺はこんなに醜い考えを持っているんだ?周りのやつらにこんな邪心はあるのか?俺だけがこんな暗闇を背負っているんじゃないか?そんな悲しみに耐えられなくなったからだ。
そして、俺は闇を追放し、鍵を閉じた。それが、中学校二年の頃。それからしばらくは穏やかな気持ちで生活を送れた。優等生の俺で居られた。でも、長くは続かなかった。
暗闇に身を投じると心の奥から呟きが聞こえるようになる。そこに目を向けると、恐ろしいほど大きくなった闇がそこにいた。俺が無償でしていた一般的な「善いこと」、それを──どうして俺がこんなことをしなければならないと否定する俺自身の矛盾。それを得ることで闇は成長していた。
俺は、ある種闇に逆らうことができなくなっていた。闇の言うことに耳を傾けるようになった。静かに心に漣を広げる心地よい音。闇の声はそんな感じだった。もともと本心に近い声なのだから、心にはよくなじむ。たとえ悪いことでも、それが基準、普通なのだから。闇が喜ぶと、俺も心のどこかで喜びを覚える。
闇は付き合って得があるやつしか相手にしようとしなかった。俺はそれを否定しながらも受け入れていた。だから、野球部の少年に対しても人が良いからという理由で仲良くしようとした。でも、嫌だった。俺が醜いことを認めることが嫌だった。だから、助けて欲しかった。もはや闇にとらわれつつある俺を救って欲しかった。誰にとか、そんなことはどうでもよかった。誰でも良かったんだ。この苦しみを分かってくれて、受け止められる奴だったら誰でも……
☆ ☆
取調べや医者の話が終わって開放されたのは夜の六時だった。行かなくてはならないところがあった。
加害者との面会、彼女の家への事情説明。気が乗らなかった。家に帰ってひたすら泣きたかった。泣き疲れても、目が失明するくらい痛くなっても永遠に泣けたらいい。
死にたいとも思った。彼女の後を追うこと。でも、俺が彼女のことを話さなければ、誰が俺の代わりに話してくれるだろうか。いや、話せはしない。彼女のことを一番に思い、彼女が死に際まで信頼していてくれた俺の代わりは居ないんだ。そう思ったら、責任を果たすまでは死ねないという気持ちになった。
空気が張り詰めるように冷たく俺の頬を撫でる。警察署までの道はネオンに溢れ、眩しかった。道端の電気屋のテレビの中ではサンタの服を着た、見慣れたアナウンサーが気象予報をしている。今夜は雪が降ってホワイトクリスマスになるそうだ。すれ違う者たちの顔はほころんでいる。今日という日を心底喜んでいる顔だ。
ドッ!
肩がぶつかった。男はいらだった顔で俺を見て、笑いながら去っていった。この寒空のめでたい日に涙を流す俺を見て、馬鹿みたいな勘違いでもしたんだろう。金髪、ピアス、間抜け顔、あんな軽そうな男でも彼女が死んだら涙を流すのだろうか?……無理だろうな、人の不幸を笑い事にするような腐った性格では。一緒に付き合っている、俺とは関係の無い女が可哀想になる。男の趣味に合わせて髪を染め、ピアスの穴を開け、挙句の果てに捨てられるときはあっさり捨てられる。真面目な自分に戻ることができず、清純な恋を取り戻すことも出来ない。
それでも、本人は満足感を味わうのだから不思議だ。その満足が諦めから生まれていることを知るときは何時になるだろう。社会に出て、真面目な自分になろうと努力する時だろうか?それとも、心底好きになる人が普通の人である時だろうか?全く気付かないこともあるに違いない。自分に興味を抱かないものは生活から切り捨てて、自分が興味を抱くものや、自分に興味を持つものだけで世界を構成する。それだけの人間になる。取り返しがつかないことに気付きながらも、目を向けない。ようやく目を向けると薄汚れた自分がそこに居る。想像するだけで笑いがこみ上げてくる。
「っははは、ははははははは、はははは」
口の端が持ち上がると、自分の意思とは関係なく笑い声が出た。おかしい、おかしくて笑いが止まらない。どうして、どうしてなんだよ!どうしてこんなにも孤独なんだ!キリストの誕生日だ。神の分身の誕生日じゃないのか!?どうして、俺だけが、こんなに悲しいんだよ!
「笑ってんじゃねえよ!お前らも、俺もだ!」
笑う自分に嫌気がさした瞬間に、俺は大声を出して駆け出した。瞬間、通りから音が消えた。やがて、ざわざわと騒ぎ出し、全てのものの視線が俺を向くのが分かった。くすくすと笑う者。意味が分からないと不快そうな顔をする者。
見るな!!見るな、俺を、そんな目で見るな!!
笑いたいんだよ!泣きたいんだよ!分からないんだ!今まで俺はどういう顔で生きてきた?彼女と出会う前は?出会ってからは?今は?……嫌だ。嫌だ!嫌だ!!想像できないのは嫌だ!彼女が居なくなったのに笑いたくなんかない!世間に流されて笑いたいなんて考えたくない!どうして勝手に笑うんだ!どうして周りは笑っている!こんなにも悲しいのに。どうして、この気持ちが周りに伝わらないんだ!許せないんだ!無理だって分かっている。だけど、どうしてこんなに俺は悲しいのに、周りは悲しくないことが許される?許せない!恨みたくない、笑っていればいいさ!嫌だ、憎しみが心に広がる。真っ暗になる。真っ黒に染まる。彼女の笑った顔も、最後に俺に向けた顔も閉ざされていく。嫌だ!永遠に残しておきたいのに!お願いだ、皆悲しんでくれ!!あいつのことを祈ってくれ!お願いだ…、知らなくてもいいんだ…、今だけでいい……
「はぁ、うぅ、ぁぁあああ!」
走りつかれて俺は膝をついた。今までになく息が上がっていた。嗚咽が漏れているのに無理して走って来たからだろう。視界が涙で滲んでいる。ところどころで光っているネオンは太陽のように目を突き刺し、周りを歩く人々がドラマのエキストラのように影にしか見えない。
「瑠奈……」
ぽつりと発したその言葉を広げた後に、世界に俺一人しか居ないような静寂が周りを覆った。
☆ ☆
「勉強?」
両親が死んで一週間が過ぎ、俺は久しぶりに学校に顔を出した。
俺が他に遅れて二学期の中間テストの勉強を学習室でしていると、そう尋ねてくる声があった。
──耳に残る、特徴のある声
ゆっくりと声のした方を見ると、入学式の時に見た彼女がそこに居た。
「え?」
状況を把握するのに時間がかかった。どんなにクラス内を探しても見つけることができない彼女を、こんなに近くで見ることができるなんて思ったこともなかったからだ。
「偉いね。私は、数学なんか中学校からリタイアしてるのに」
笑いながら彼女は言った。
「確かに、難しいね。不等式の証明とかは覚えるしかないから」
俺は椅子を引いて彼女に向き合って言った。
「あはは、耳が痛い。流石に頭良いね。勉強推薦で入学した恵美が「彼は頭いいよ」って言っていたから、一度見てみたかったんだよね。よろしく、霊宝君」
「……よろしく。実は俺も大川さんのことを知ってる」
俺は彼女に入学式の時から、彼女のことを知っていたことを話した。話し終わるとお互いに見合って、笑い合った。勤勉な二、三年生がこちらにじとりとした視線を送ってきているのに気付いて、更に笑い合った。
その日は、駅まで一緒に帰った。お互いのプロフィールを語り合ったり、最近の生活を語ったり、話すことが尽きることはなかった。
家に帰ってからも心が浮き立ち続けた。メールアドレスを教えてもらったので、連絡を取り合うことができる。メールを送ろうと思うのだが、いざ送ろうとすると何を送っていいものか悩む。お元気ですか?……さっき会ったし、聞いたばっかりだ。良い天気ですね。いや、あいにくそこまで良い天気でもない。うっすらと月が見えるか見えないかくらい。やっぱりスタンダードにこんばんはか?でも、同学年でこんばんはとか言うか?もっと仲が良かったら楽な言葉で気軽にいえるんだけど、初めてメールする相手にいえるか?これからもよろしく。登録お願いします。とかかなあ?普段こんなことで悩んだことがなかったから、とても楽しかった。他の人の当たり前の感情を、不意に知った気がした。
その時、急に汚い自分の部屋にここしばらく聞いていないメロディが流れた。メールが来たのだ。急いで開いて中を確認してみると望んでいた人からのメールだった。
今日はどうも、これからもよろしくね♪恵美の情報網で駿君のメールアドレス知っちゃった☆
可愛らしくそんな内容のメールが画面に描かれていた。嬉しかった。俺は急いで返信してから気付いた。
なるほど、自分の気持ちを正直に書けば迷うこともないんだな、と。それよりも、彼女が自分の方からこっちのアドレスを探していたことが嬉しかった。恵美という人物の出来過ぎ君加減も気になったが、俄然嬉しさが勝った。
その日の夜は、あっという間に更けていった。それから一週間同じように幸福な日が続き、俺は彼女にお誘いを申し出た。夕焼けが綺麗で評判な紅葉山だ。彼女はそれを受け入れてくれ、山の上のベンチで会う事にした。聞いたことのある童謡が辺りに響き、夕焼けが映る雲がかかった山脈が息を飲むほど綺麗だった。彼女が来て、たわいのない話をした後に沈黙が続いた。小柄な彼女は遠くを眺めていた。その様子が何だか悲しげで、──消えてしまいそうで、彼女が傍に居るという確証を得たくて俺は愛の言葉を紡いだ。
「好きです」
同時に彼女も同じ言葉を発したのに気付くのに時間はかからなかった。ロマンティックな景色から自然と口から出たんだと思ったが、自分も同じような顔をしていたから言ったんだと悟った。まだ、両親を失ってから二週間しか経ってないから仕方ないといえば仕方ない。だけど、彼女の前でそんな顔をしたくはなかった。とりあえず、おかしい振りをして自然に笑った。この日、俺と彼女は彼氏と彼女になった。
☆ ☆
私は彼の両親が死んでから、彼にバイト先を紹介した。保険金は多量に出たと言っていたが、それだけではこの先生きていけないことは明白だった。知り合いの中華料理店に尋ねてみると、中国語検定三級があれば破格の値段で雇ってあげると聞いた。私は彼にそれを話し、彼はそれを死ぬ気で努力し三級の証を取得した。
結果、彼は学校の後に毎日五時間体制でバイトを励むこととなった。同時に、一緒に遊べる機会が減った。彼はそれを申し訳なく思っている様子で、私も少し悲しかった。けれど、どうすることも出来ないことがわかっていたので、止められるわけもなかった。彼は、毎日の勉強もしっかりとこなし優等生として学校を過ごしていた。彼のような苦労をしていないのに、私の成績が彼の成績よりも低いのは複雑だった。もしも、彼が両親を亡くしていなかったならば、きっと、私の手の届かない大学へ行ってしまうことだろう。現状でまだ背中が見える。それは嬉しいことであり、悲しいことでもあった。
それでも、少ない休みはお互いに悲しみを吹き飛ばすようにはしゃいだ。母は私の舞い上がりようにも気付かないようだった。幸せと言える日々だった。彼は私の彼氏であり、大事な人だ。彼も私のことを大事と思ってくれている。だけど、私には分かっていた。母がだんだん思いつめていることを。いずれ、母の日記に書かれていることを実行される日が来ることを。急がなければならない。パソコンをいじるのは苦手だ。何でパスワードってのはこんなに精密に作らなければいけないんだろう。
でも、この鍵は彼にしか開けないものでなければならない。他の人が見ても、私の苦しみの半分も理解してくれないから。彼だけが私の苦悩に気づくんだ。だから、鍵。彼の苦しみを和らげ、一つの家族を救うための鍵。それがこのファイルの中身。パスワードはファイルを守る大事なもの。私の心の具現──
☆ ☆
スーパーで十六歳の彼女に話しかけられたのは記憶に新しかった。一言、「幸せですか?」と晩御飯の鶏肉を選んでいる最中に言われたのが印象に残っている。私はその問いに何と答えただろうか。上辺だけを繕って幸せです、と答えただろうか。それとも、藁にもすがる気持ちで全てを彼女に打ち明けただろうか。分からない。唯、その彼女に家の内情を詳しく話したことを覚えている。夫が仕事を頑張っている、こうやって好きな物を食べられるのは彼の給料が高いからなんです、そんな本当のことだけど、本心から言っていないことを話した。彼女は悲しげに笑いながら聞いていた。なぜか全てを悟られている気がしてほんの少しの安堵と、頭の中に霧が立ち込めるような不快感を得た。
これは深い悲しみだろうか。あまりにも強烈な気持ちで理解できなかった。彼女は全ての話を聞いた後にこう言った。「良い夫ですね。結婚当初の時の彼はもっと素敵でしたか?」私は息を着く間もなく返した。「ええ、とても」腐るように綺麗な笑顔で言ってしまったことだろう。彼女はその言葉に満面の笑みを見せ、「分かりました」と去っていった。何か嫌な予感もしたけど、まさかこんな事になるなんて……
私の夫が彼女を轢いたというのをさっき聞いた。心の底から死にたくなった。彼女に申し訳が立たなくて涙が溢れた。