先日夫が一日留守にしていた時のこと。
誰もいない家で私は一日中一人で過ごすしかなかった。
こういう働き方ゆえ、「家にいる」と言っても仕事はある。
私は家の中で黙々と仕事をする。
買い物に行く予定もない。
誰とも会話しない一日。
さらにこの日私はプチ断食もしていた。
仕事をしている間はそこに集中して何も感じないが、ふとした瞬間に強い孤独と空腹に襲われる。
「『老後』ってこんな感じなんだろうな」
そんなことを考えた。
現在30歳の私も「人生100年時代」などと言われるとゾッとすることがある。
「あと70年も生きないといけないのか」
そう考えると現世をどう生きるかに必死になってしまい、来世なんてどうでもいいものに感じてしまう。
思い返せばこれまでに引き寄せの法則関連の本を依存症気味になりながら読み漁ったが、そうした本の中に「前世での因縁で現世が決まる」的なことが書いてあることはあったが「現世での行いが来世につながる」といった旨のことが書いてあるのを見たことがなかった。
私に限らずたくさんの人が「今世をどう生きるか」に必死なのだと思う。
「人生100年時代」と言われるほど、寿命が長くなったがために。
ただ、長い人生を生きる上で希望は必要不可欠なものだとも思う。
「自分には何もできない」と思いながら100年も生き続けるのは大変だ。
でも、時にその希望が重すぎると感じてしまうことがある。
希望を維持する体力・気力がなければ長い人生を幸せに生きられない。
その体力・気力を維持する上で、神様とは便利な存在な気もしなくもない。
「神様仏様なんとかしてください!」と祈っておけば何とかなる。
来世のことを考える必要がなくなり、すぐに死ぬ心配がなくなり、従って宗教を信仰することに意味がなくなった現代では、「困ったときの神頼み」的な宗教が求められているのかもしれない。
そんなことを先日島田裕巳先生の『捨てられる宗教 葬式・墓・戒名を捨てた日本人の末路』を読みながら考えた。
宣伝
毎月1日にエッセイ雑誌
『Chocolate』
を発行しています。
今月号はこちら
。・○*○・。・○*○・。・○*○・。