9月の英語劇『Untolled』に関連して、『テネシー・ウィィアムズと日本の演劇①』についてです | 塩川blog(司法書士・行政書士・宅地建物取引士)

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司法書士・行政書士・宅地建物取引士等の資格者として日常の業務や、業務上必要な外国語の習得、舞台役者としての活動など、幅広いジャンルをアップしていきます。

みなさま、こんばんは~星空キラキラ星空

 

 

西暦2023年10月7日(土)、夜9時過ぎのブログアップですアップ

 

 

三重県北部地方、急激に秋の景色が広がりつつあります。

 

 

写真の説明はありません。

 

 

先月末頃は、あれほど暑かったのに、もう、寒さに震えている感がする今日この頃・・・えーんアセアセ🥶

 

 

写真の説明はありません。

 

 

これから冬にかけて、ヨーダレオちゃん二世の存在がありがたく思うようになりますね。

 

 

今日も、寒かったので、彼に暖を求めましたが、嫌がって逃げていきましたガーンゲラゲラ叫び叫び叫び叫び叫び

 

 

さて、今日の本題にはいります。長文の英文が入りますので、ここまでにしていただいたほうが無難かもしれません。

 

 

なんせ、だらだらと、まとまりのない文章がつづきますから。

 

 

でも、書いていきます。

 

 

参考文献としましては、本日は、Johnson, S.E.(2014).『The influence of Japanese traditional performing arts on Tennessee Williams's late plays』の論考からとなります。

 

初期のテネシー・ウィリアムズの作品とは異なり、西洋(近代)リアリズム演劇(※)への流れに限界を感じたのか、後年のウィリアムズは東洋的思考、特に、能・狂言・歌舞伎の世界へと引き込まれていきます。

アリストテレス的演劇思考・演劇技術から乖離する演劇へと変化したといってはウィリアムズの後期作品の本質をついていないかもしれませんが、ダース塩ジーが参考にした文献ではこの点を問題にしています。

 

しかし、ダース塩川は、演劇講義でギリシャ演劇論中、アリストテレスの著作「詩学」という著作を深く学んでいないので、時間芸術である西洋古代演劇からの流れから逸脱するといってしまえばいいのか、このブログで、特にプラトン・アリストテレスが論じた古代ギリシア演劇論についても学習しつつ、どの時代・いつの時代でも、『演劇とは何か』と問われても、解答の得られないテーマですが、ブツブツと言いながら、進めていきたいと思います。

 

※西洋(近代)リアリズム演劇と書きましたが、よくわかりません。以下のように解説されていますが・・・。

19世紀以降の近代劇で、写実主義を志向した演劇のこと。

一般には19世紀ヨーロッパのリアリズム演劇のなかで,近代社会のもろもろの問題をとりあげ現状を批判的に描いた作品を指す。 〈社会問題劇〉または単に〈問題劇〉ともいう。…

 

 

さて、参考文献からの引用が、これから大量に記載されます。以下・・・・・

 

  ↓  ↓  ↓  ↓

 

 

While Tennessee Wiliiams has been hailed as one of the greatest American playwrights, critics generally agreed that he wrote some of his worst plays near the end of his career.
From the late fifties and sixties onward, Tennessee Williams’s plays did not meet the critical and commercial success that greeted his earlier smash hits. As American theatrical tastes were changing and Off-Broadway experimental theater was growing,Tennessee Williams’s plays began to change, becoming less realistic and more abstract.
Puzzled critics and audience members alike found it difficult to categorize these plays and comprehend the theatrical language that Williams was beginning to explore.
 

 

テネシー・ウィリアムズはアメリカで最も偉大な劇作家の一人として称賛されていますが、批評家らは彼がキャリアの終わり近くに最悪の劇のいくつかを書いたということでおおむね同意しているようです。
1950 年代後半から 60 年代以降、テネシー ウィリアムズの演劇は、初期の大ヒット作のような批評的かつ商業的な成功を収めることができませんでした。 アメリカの演劇の好みが変化し、オフブロードウェイの実験演劇が成長するにつれ、テネシー・ウィリアムズの演劇は変化し始め、現実味を失い、より抽象的なものになりました。
困惑した批評家も観客も同様に、これらの劇を分類し、ウィリアムズが探求し始めた演劇言語を理解するのが難しいと感じました。

 

 

中略します。別のブログにて、この続きはアップします。英文論稿とのバトルになってしまい、ダース塩川も四苦八苦です。

 

 

次に、東洋演劇、特に日本伝統演劇との決定的な出会いの場面を引用します。

 

 

The connection between Tennessee Williams and the theater of Japan revolves around his relationship with Yukio Mishima. The two famous writers met in 1957 entirely by chance.Their resulting friendship would expose Williams to not only Mishima’s plays and novels, but also to the culture of Japan, including noh and kabuki. Allean Hale has documented the narrative of Williams and Mishima meeting, most notably in her article. “The Secret Script of Tennessee Williams.”

In this article,she describes Williams and Mishima’s bizarre first encounter in 1957. Mishima was traveling in New York to promote Knopf’s publication of the English translation of his Five Modern No Plays. Williams was required to stay close to his psychoanalyst’s office during the week, but he and his partner Frank Merlo were renting a place on the West Side for weekend parties. Allean Hale describes William’s weekend retreat in her article;   

 

 

 

テネシー・ウィリアムズと日本の演劇とのつながりは、三島由紀夫との関係を中心に展開されています。 二人の有名な作家が 1957 年に出会ったのは全くの偶然でした。その結果生じた友情により、ウィリアムズは三島の演劇や小説だけでなく、能や歌舞伎などの日本文化にも触れるようになりました。 アリアン・ヘイルは、ウィリアムズと三島の出会いの物語を記録しており、特に注目すべきは彼女の記事である。 「テネシー・ウィリアムズの秘密脚本」

この記事では、彼女は 1957 年にウィリアムズと三島の奇妙な最初の出会いについて説明しています。三島はクノップによる彼の『現代のノープレイ 5 つ』の英語訳出版を宣伝するためにニューヨークを旅行していました。 ウィリアムズは平日は精神分析医のオフィスの近くに滞在する必要があったが、彼とパートナーのフランク・メルロは週末のパーティーのためにウェストサイドに場所を借りていた。 アリアン・ヘイルは、ウィリアムの週末の静養について記事の中で説明しています。

 

 

In tune with the Zen of the times,he furnished it sparsely in what he called “chop suey modern”: mats,bead portieres,paper lanterns. Here he served drinks and deli food to the crowd.

One Sunday night when too few showed up, Tennessee himself went out on upper Broadway to round up some interesting street people. He saw coming toward him these two elegant Orientals.”How would you like to come to a party?”

He asked. So American’s leading playwright and Japan’s leading novelist spent a congenial evening together watching the bacchanalia, neither knowing who the other was. They met formally a week later in the office of New Directions, where Mishima was discussing the forthcoming publication of his Confessions of a Mask.James Laughlin, their mutual publisher, introduced them.

 

当時の禅に合わせて、彼が「チョップスイモダン」と呼んだもので、マット、ビーズのポルティエール、提灯などをまばらに飾りました。 ここで彼は群衆に飲み物とデリ料理を提供しました。

ある日曜日の夜、参加者が少なすぎたので、テネシーさん自身がアッパーブロードウェイに出かけて、興味深いストリートの人々を集めました。 彼は、二人の優雅な東洋人がこちらに向かってくるのが見えました。「パーティーに来ませんか?」彼は尋ねた。 こうして、アメリカを代表する劇作家と日本を代表する小説家は、お互いが誰なのかも知らずに、バカナリアを見ながら楽しい夜を過ごした。 1週間後、二人はニュー・ディレクションズのオフィスで正式に会った。そこで三島は近々出版される『仮面の告白』について話し合っていた。共通の出版者であるジェームズ・ラフリンが二人を紹介した。

 

This introduction was the beginning of a long friendship which would lead to Williams taking at least four trips to Tokyo. Mishima also visited New York and saw Williams on each trip. Williams describes their meeting in significantly less detail in a group interview over an international television hookup. He tells Edward R.Murrow that he and Mishima “met in New York, in a rather unfashionable district and in a rather bohemian quarter, but we had a marvelous time,”. Due to the privacy of both individuals, it is difficult to say how intimate or deep their friendship ran, but the evidence of their repeated encounter and coincidental sharing of a publisher, their friendship seemed inevitable.

They were both successful writers in their home country, and well-known for it. This success was also a burden for them both, weighing heavily on them as they enacted their sexuality in different ways. Mishima was married, though published an expose on the underground homosexual community in Japn. Williams had a longtime partner, though Frank Merlo and Williams’s relationship was not stable or widely known to the general public.

Mishima and Williams also shared a strong affiliation with traditional culture;Williams with the South, Mishima with samurai tradition.

Mishima and Williams also both made a turn toward the avant-garde in the late fifties, shifting their writing styles. While their disparate cultures and backgrounds make the realization of their friendship a surprise to most, it is easy to see why the two would maintain a friendship over the course of 13 years.

 

この紹介が長い友情の始まりとなり、ウィリアムズは少なくとも4回東京に旅行することになる。 三島もニューヨークを訪れ、そのたびにウィリアムズに会った。 ウィリアムズは、国際テレビ番組でのグループインタビューで、彼らの出会いについてあまり詳しく説明していない。 彼はエドワード・R・マローに、自分と三島は「ニューヨークで、どちらかというと流行遅れの地区で、どちらかというとボヘミアンな地区で出会ったが、素晴らしい時間を過ごした」と語っている。 両者のプライバシーのため、彼らの友情がどの程度親密で深かったかを言うのは難しいが、度重なる出会いと出版社の偶然の共有の証拠から、彼らの友情は避けられないようだった。

二人とも母国で成功した作家であり、そのことでよく知られていました。 この成功は二人にとって重荷でもあり、さまざまな方法でセクシュアリティを表現する際に重くのしかかりました。 三島は結婚していたが、日本の地下同性愛コミュニティに関する暴露記事を出版した。 ウィリアムズには長年のパートナーがいたが、フランク・メルロとウィリアムズの関係は安定していなかったし、一般に広く知られていたわけでもない。

三島とウィリアムズはまた、伝統文化との強いつながりを共有しており、ウィリアムズは南部、三島は武士の伝統と強い結びつきを持っていました。

三島とウィリアムズも 50 年代後半に前衛的な方向へ転向し、文体を変えました。 文化も背景も異なるため、友情の実現は多くの人にとって驚きですが、なぜ二人が 13 年間も友情を維持し続けるのかは簡単にわかります。

 

 

 

疲れましたので、本日は、ここまでにさせていただきます。

 

次回、いつなるかわかりませんが、ヨーロッパ現代演劇の根本的な礎、理論的礎はどこにあるのかについても思考しながら、

アリストテレスを初めとして、『詩学』におけるアリス トテレスの定義についても参考文献に頼りながら、

 

 

 

 

 

演劇については、不条理演劇分野の舞台で、若いヒロインや、二人芝居で高齢の『おばさま』に、トンカチで殴り殺されるという悲劇にあってきた私の舞台も参考にさせていただいて、

 

年を取っていますが、シェークスピア作品の舞台に立つことも夢みながら、

 

『虚構』

 

の世界、

 

 

あくまでもフェイクの世界である、演劇について記載していきたいと思います。

 

 

 

 

 

みささま、

 

おやすみなさいませ~~~お祝いルンルングラサンゲラゲラクラッカーロケット