2019年12月3日、4日、舞台『坂本龍馬』の風景(その1)北辰一刀流神田玄武館(千葉道場)跡他 | 塩川blog(司法書士・行政書士・宅地建物取引士)

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みなさま、こんにちは~~~晴れハート黄色い花さくらんぼ

 

 

晴天の日となった三重県北部地方、西暦2019年10月22日(火)、記念すべき日となりました。

 

「天皇の即位の日」の5月1日に続き、「即位礼正殿の儀の行われる日」の10月22日、本日は本年に限り「国民の祝日」になるとのこと。

 

雨の東京では、粛々と様々な儀式が行われているそうです。

 

 

さて、今日から、12月3日(火)、4日(水)都内渋谷伝承ホールでの幕末時代劇『坂本龍馬』舞台公演について、

 

断片的ですが、その歴史的背景を検証する記事をアップさせていただきます。

 

シオジー、別に、坂本龍馬研究家でもなく、坂本龍馬のファンの皆さまのような『坂本龍馬』の精神性とともに、この惑星を歩く生き様を思考するどころか、

 

 

この『STAR WARS』ブログが示す通り、銀河宇宙の生命体として、太陽系第三惑星に生まれてしまったことを後悔しながら、周囲の生命体である親戚縁者を始め身近な人々から疎んじられ、

 

 

『ジジイのくせに、早く、死ね~~~!!ムカムカ叫び

 

 

と言われているのに、

 

 

『120才以上、生きてやる~~~グラサンロケットグラサンUFOUFOUFOUFOUFO

 

と宣言して、ターミネーターもどきのサイボーグに変身しようとする生き方を志向している生命体なので、

 

周囲の人々はたまったものではないという存在でございますね。

 

 

 

ヨーダレオ卿、ふんぞり返っている場合じゃないんだけど・・・・・黒猫オッドアイ猫三毛猫

 

 

さて、本題に戻ります。

 

舞台は、坂本龍馬、中岡慎太郎ほか同志たちが生まれ故郷土佐、高知を捨て脱藩し、

 

文久二年(1862年)江戸での風景となります。

 

場面は、桶町千葉道場で桂 小五郎との出会いがあり、そして、開国論者の最先鋒、国賊勝海舟を討たんとの話に及び、直情怪行の桶町千葉道場師範千葉重太郎とともに、国賊勝海舟の命を狙うこととします。

 

 

桶町千葉道場(おけまちちばどうじょう) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

幕末に千葉定吉によって開かれた、北辰一刀流の道場。

江戸の桶町(現在の東京都中央区)八重洲にあった。主な門人に千葉重太郎(定吉の息子)、千葉さな子(定吉の娘)、土佐藩士の坂本龍馬、柏尾馬之助(新徴組剣術教授方・肝煎役)らがいた。

定吉の兄・千葉周作が神田於玉ヶ池で開いていた玄武館が「大千葉」と通称されたのに対し、こちらは「小千葉」と呼ばれた。玄武館の千葉一族の多くが水戸藩に仕官したのに対し、定吉・重太郎は共に鳥取藩の江戸藩邸に仕官した(当時の藩主池田慶徳は水戸家の出身であり、その縁に連なる可能性もある)。

 

 

なお、千葉周作先生につきましては、シオジー、都内の北辰一刀流道場でお世話になっていた都合、その歴史的背景として参考にさせていただいたのは、

 

主に、作家、司馬遼太郎先生の歴史小説『北斗の人』(『週刊現代』誌上に1965年1月から10月まで連載)となります。

 

 

プロットは、千葉周作の幼少期から江戸へ出て中西派一刀流を学んだ修行時代、北辰一刀流を開き上野国での馬庭念流との抗争(伊香保神社掲額事件)、再び江戸に戻って神田於玉ヶ池に道場「玄武館」を構えるまでの青年時代を扱うものです。

 

 

この作品に対する、一解説によれば、司馬遼太郎は本作で、徹頭徹尾合理性を追求し、それまでの剣術における迷信や神秘性を廃してそれに基づく晦渋な用語や曖昧模糊とした論理の類も一掃し、

 

近代的な体育力学として新たな剣術体系を創始した周作を、「この点、日本人の物の考え方を変えた文化史上の人物」と評価している。

 

また、本作の前身である中編小説『千葉周作』でも、「もう五十年おそく生まれておれば、剣術者などにはならずに、自然科学者にでもなっていたような男」と評している。

 

としています。

 

今年、4月5日神田玄武館跡(千葉道場)をおとずれました。

 

fecebook上でアップした写真ですが、映りが悪く、申し訳ありません。

 

 

 

 

幕末江戸では、江戸三大道場として、

 

『位の桃井』桃井春蔵の鏡新明智流『士学館』、

 

『力の斎藤』斎藤弥九郎の神道無念流『練兵館』、

 

『技の千葉』千葉周作の北辰一刀流『玄武館』、

 

が隆盛を誇っていたのはよく知られるところですね。

 

 

なお、桶町千葉道場師範、千葉重太郎ですが 文久二年にはもう鳥取藩に仕官し、藩の「周旋方」という職務についていたようです。

この地位で、大阪方面へ赴いた際、龍馬といっしょに神戸の勝海舟先生を訪ねたとのようですが、定かではありません。

 

 

最後に、2015年10月、「北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)」の免許皆伝書を坂本龍馬が取得していたことを示す文書について、高知県立坂本龍馬記念館が初めて確認した。

 

とのニュースが流れました。

 

千葉一門の道場で剣術を学んだ龍馬は、後世の証言などから剣の達人だったとする説がある一方、剣術の皆伝書が現存しないため疑問視する説もあり、

 

北辰一刀流の、次のような薙刀の皆伝書は残っていたのですが、

 

 

北辰一刀流長刀兵法目録

 北辰一刀流長刀兵法稽古執心浅からず、組数相済み、その上勝利の働きこれ有るにより、家伝始めの書この一巻これを差し進め候。なお師伝を疑わず、切瑳琢磨を以てすれば必勝の実相叶い有るべく候。仍(よっ)て件(くだん)の如(ごとし)

 

 

今回の発見は、秘伝巻物として「北辰一刀流兵法皆伝」「北辰一刀流兵法箇条目録」「北辰一刀流長刀(なぎなた)兵法皆伝」-と書かれていた。

 

とのことです。

 

焼失したと言われていたのですが、坂本龍馬が、剣の達人だったことを裏付ける貴重な史料になるかもしれないとしています。

(シオジーが学んだ、北辰一刀流宗家第五世 小西重治郎先生によると、坂本龍馬の伝位は「中目録免許」であったようですが。。。)

 

 

しかし、20歳で、土佐の小栗流和術の師範代をつとめていたとの話もあり、剣客であることにまちがいはないようです。

 

 

それでは、

 

第一幕、土佐高知、桂浜からスタートする、幕末時代劇『坂本龍馬』舞台公演、

 

 

 

 

 

 

 

シオジー、京都所司代見回り役人、山本&勝海舟先生の下男仁平 の二役、チョイ役ですが、

 

幕末の舞台に出演させていただきます。

 

殺陣のかかり役(斬られ役)、もしくは、斬る役もつとめさせていただくかどうかは、11月からの稽古に入ってから判明しますが、

 

殺陣の場面となりますと、太刀筋は新陰流兵法、一刀流兵法に基づくことになるかと思います。

 

 

 

それでは、

 

みなさま、

 

本日はこれにて。

 

また、『坂本龍馬の風景』として、舞台の場面を想定しながら、

 

このブログにて、記述してまいります。