伊吹山から関ケ原古戦場へ・・・。 | 塩川blog(司法書士・行政書士・宅地建物取引士)

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西暦2016年5月14日(土)、快晴の三重県北部地方となりました晴れ晴れ晴れ


さて、先日5月11日(水)、


大学時代の同期生が、滋賀県米原市に一軒家を購入して余生(?)をおくっていると聞き、



他の同期の者と合流し、彼の奥伊吹の一軒家にお邪魔してきました。


定年退職後、滋賀県大津市に居住用マンションを保有しているのに、



伊吹山の麓に一軒家を持ち、優雅な生活をしている友人に嫉妬を覚えてしまったのですが、



これも宇宙の創造主が彼に与えた、太陽系第三惑星小劇場なのだなと思い直し、



暗黒面のフォースの力のみに生きる運命を背負ったダースシオジイの生きざまを、



しばし、比較の時間として熟慮せよということなのか、彼の別荘に滞在中、刹那刹那考えておりましたですよ・・・波平見猿スカルSKULL










伊吹山山荘でのスキヤキ昼食会を昼過ぎに終えると、


私だけその場を早めに失礼し、一路、美濃路から養老山系を経て、伊勢の国四日市の自宅に方向を取ったのですが、



行路中関ケ原古戦場を突き抜けることは必死でした。



高校二年の当時から、もう何度歩いたのか正確な回数も覚えていませんが、


まぁ、60回目の関ケ原ということにしておきましょうか・・・!!!!!!!!ニャハー




どうしても、西軍各部隊の陣地を歩いてしまう傾向にあるのですが、




久しぶりに石田三成公の笹尾山本陣を訪れました。



島左近殿の陣地も、見事に馬防柵が整えられていて、今と昔とは様変わり。



笹尾山本陣周辺には、石田隊、伊藤隊、他の小大名、そして大阪城からの支援隊2000名が展開し、



約1万余の西軍部隊が、決戦当日2万を超える東軍部隊と激戦を繰り広げましたが、



中でも、石田隊の前衛部隊、島隊・蒲生隊の奮戦は歴史に記憶されています。


そして、西軍主力、宇喜田秀家公の部隊約2万余(南天満山展開小大名含む)とが、午前中東軍を苦しめることになりましたが、




それにしても、どうして石田三成公、大谷吉継公は、



西軍最終防衛ラインを笹尾山から松尾山新城に敷いたということは理解できるのですが、



大津城攻撃を終了しようとしていた1万5千の、毛利、立花、小早川の九州最強部隊を待たなかったのか、



旧暦9月16日には先鋒立花隊が到着予定であったのに、



なぜ野戦を急いだのかが理解できないのですね。



内府公も、関ケ原原野に、島津、宇喜田、立花の旗が立ち並ぶ配置を目の前にすれば、


勝ちはあり得ないと身震いしていたのではないかと想像するのですが、



当然、島津義弘公、小西行長公、その他西軍の百戦錬磨の強者もその事は理解していたはず。



裏切り、日和見が続出すると予想し嘆く石田三成公の頭脳明晰さは流石と理解できるのですが、




大津部隊到着のほぼ1日前に野戦で西軍の宇喜田、石田、大谷、小西各隊を叩きたいとする家康公の焦りを感じ取れなかったのも、



五奉行の筆頭として文吏派を歩んだ石田三成公の性であったのかと、



短絡的な見方をしてしまうシオジイであるのですね。




今回残念な思いをしたのは、小早川秀秋の謀叛部隊に、敢然と立ち向かい討ち死にして果てた勇将、平塚為広公の死地を歩けなかったことなのです。



シオジイも平塚為広のようにありたい、裏切りで総崩れでありなから、


徳川本隊に突撃しようとした宇喜田の武将のようにありたいと願い、武術を続けていますが、



自分が卑怯な生き方をこれまで行ってきたという反射的心理なのかなと思ってますよ。



残念でござりまする・・・スカルガーンばいちゃん



それでは、



西暦1600年へのタイムスリップはこの辺りで・・・波平キティちゃん×ハートおしまいジジ


皆さま、



本日も、よい日でありますように~~~蝶々!!ハートwハート☆おんぷリボン