1600年9月15日、関ヶ原戦記念日に。 | 塩川blog(司法書士・行政書士・宅地建物取引士)

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こんばんは~~半月







晴天の一日でしたね~~晴れ




西暦2013年10月21日、今日は、日本史上、天下分け目の合戦となった、関ヶ原戦の日となっておりますね…爆弾メラメラ





西暦1600年9月14日、美濃大垣、垂井方面を中心に駆引きが繰り返された東西両軍は、




西軍の一部主力の大垣城からの夜間移動により、関ヶ原盆地の笹尾山、天満山、松尾山防衛ラインで、持久戦を図ろうとする西軍に対し、






東軍は、大垣城からの西軍部隊が移動開始した事実を7時間経過後認識し、短期決戦を切望する徳川家康は、即座に追撃態勢に入り、主力を関ヶ原盆地に移動させ、西軍石田、島津、小西、宇喜多、大谷、戸田、平塚勢等に、9月15日午前8時頃、突撃を開始した。




しかし、状況は三成の思いとはかけ離れ、松尾山城に毛利輝元を入城させ、互角の対峙に持ち込もうと思い描いていた石田三成の構想も叶わず、去就が定かでない小早川秀秋が9月14日に入城し、日和見に入ろうとしていた。





また、ほぼ一日違いであろうかと思うが、大津城に立てこもり西軍に反旗をひるがえした京極高次に対し、西軍は、毛利元康、立花立宗茂、小早川秀包、筑紫広門等の九州の最強部隊15000人を包囲攻撃にあて(9月7日大津城攻撃開始、15日落城)、




本来ならば、三成の大垣集結緊急要請に呼応すべく、9月初旬に美濃大垣に進もうとしていた立花宗茂、毛利元康勢が、9月15日関ヶ原では、宇喜多隊の側面を固め、東軍を80パーセント以上の確率で撃破したであろうと思われますが、





大阪城で、美濃大垣、近江方面の最終防衛戦構想から、最前線の状況把握を怠った毛利輝元の出撃がならなかったことが、関ヶ原戦の大敗につながったと考えますが、毛利家もわれていたので致し方なかったのでしょうか……叫び





『関ヶ原戦は、誠の武人の戦ではござらぬ……メラメラパンチ!』と、南宮山麓で今か今かと出撃を待っていた毛利勝永(かつなが)は、このように評し、大阪夏の陣で自害しますが、







徳川家康に対し、戦闘意欲満々の西軍武将達が戦闘に参加できなかったというのも、不思議な一戦であったといえますね…DASH!ショック!







ダースベイダーシオGも、当時生きていたら、宮本武蔵先生が
、宇喜多秀家隊の一員として加わり、本戦に参戦していたようなので、槍部隊か鉄砲隊のスナイパー(はてなマーク)として、戦場に赴きたかったでござるよ~~~アップ





それでは、また、二刀流を目指して~~!!




おやすみなさい~~クラッカー星空







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