藤原相之助は昭和八年発行の『郷土研究としての小萩ものがたり(友文堂)』の中で、次のように語っておりました。

 

-引用-

~物見ヶ岡の東北、八乙女の尼澤といふところには、寺のあつた址があり、布目、蓆目の古瓦などが多く出ます。これ等の寺には鎌倉以降に殖えた下げ尼(長髪尼)などが多く住み、阿彌陀如来の功徳や、観音菩薩の霊験を織り入れた小萩物語を歌ひつゝ諸所を勸化して廻ったらしいからです。そして之は岩城の白水阿彌陀の徳尼御前の縁故を引くものであり、前身は平泉の貴女だつたと云はれるものもあつて、その歌つた物語から、小萩尼の名となつて傳はつて来たものであらうと思はれます。

 

 これを受けた私は、「八乙女の尼澤」を旧天ヶ沢行政区のあたり-仙台市泉区南光台一丁目地内-と推定しておきました-2013年9月28日付拙記事「泉と清水と白水と-その3-」-。

 『吾妻鏡』にみえる「物見ケ岡」を仙臺東照宮周辺と推断していた藤原相之助は、その東北―北東―「尼澤」なるところに尼寺址があったとしているわけですが、仙臺東照宮の北東で「あまがさわ」といえば、その旧天ヶ沢行政区くらいしか思い当たりません。「八乙女」地区からはやや外れていることから「八乙女の~」には微妙な違和感があったものの、なにしろその周辺で生まれ育った私をして「あまがさわ」という地名は他に思い当たらなかったのです。それ故に精査することもなく迷わず推断してしまっていたわけですが、最近になって思わぬ落とし穴があったことに気づきました。それは、南光台団地を南北に貫き八乙女地区に流れている「南光川」自体が「天ヶ沢」であったことです。なにしろ、造成した㈱関兵(せきひょう)のHPによれば南光台一丁目から六丁目までの旧地名はほぼ全域「天ヶ沢」であったようです。

 

南光台町名変遷 ㈱関兵HPより

 

 かつてバキュームカーが南光台全域を駆け巡っていた水洗化未整備時代、糞尿以外の生活排水は各住戸前の側溝、いわゆる「ドブ」に直接排出されていたわけですが、その時代を知る周辺住民からすれば、南光川は生活排水路網の基幹本流、ありていに申せば「ドブ川の親分」でしかなかったものと思われます。私の認識としては、天ヶ沢は「南光台北部町内会天ヶ沢行政区」の底地名であり、南光川はドブ川であり、両者は全く結びついておりませんでした。その「ドブ川の親分」に「南光川」なるいっぱしの名称があったことを私が知ったのは、おそらく1970年代後半だと思います。それまでは各住戸直結の「ドブ」と区別して「でっかいドブ」くらいに呼んでいたような気がします。おそらく私は、南光台に住む従兄弟を経由して「南光川」という名称を知りました。造成時からそう呼ばれていたものを私が知らなかっただけか、1970年代に地元の町内会か商店会ないしPTAあたりがあらためて命名したものかはわかりませんが、従兄弟が 〽南光川って知ってますか~と、1979年頃、当時ヒットしていた狩人さんの「アメリカ橋」の節回しで歌っていたことをよく覚えております。私が「南光川」なる名称を認識したのはその頃だったのかもしれません。

 1970年代前半の頃、鍵っ子少年だった私は、風邪をひいたりするとたいてい母の職場に近い南光台の小児科に連行されていたわけですが、そのすぐ近くにも南光川―まだ名も知らぬドブ川―が流れておりました。ある日、小児科近くの小さな橋で川に子供用の帽子が落ちていることに気づきました。帽子は何かに引っかかっていたものか、水流にあおられてゆらゆらしておりました。帽子を落とした子はさぞやがっかりしただろうに・・などと思いながら、しばしそれを眺めつつ「あの帽子はどこまで流れていくんだろう」とつぶやくと、母は「海だよ」と教えてくれました。今にして思えばなんとも雑な回答ですが、私の想像は広がりました。生家周辺からも森を隔てたはるか遠くに水平線がちらっと見えておりましたが、子供の私にとって海は非日常の象徴のような世界でありましたから、その帽子が見知らぬ土地を延々と流れされてゆき、ついには大海原に放たれ遠き水平線の彼方で波に揺られる絵が頭の中で壮大に展開していったのです。そのロマンが頭から離れず、後日私は川を辿ってみることになるのでした。

 

帽子をみかけた橋

南光台3号橋というらしい

帽子をみかけた川面

昨年惜しまれながら閉店した老舗の「らんぶる洋菓子店」

らんぶる洋菓子店と南光川

 

 かつて南光川の上流には沼が二つあり、現在の南光台一丁目公園は上流からみて二つ目のそれであったのですが、時代も時代なのでそれらの沼にはことさらに安全対策が施されているわけでもなく、簡単に立ち入ることができました。当然ながら子供が沼に落ちることもしばしば、私の友人も私の目の前ですべり落ちたことがあったので微妙に恐怖の沼でありました。

 

沼を埋めて整備された南光台一丁目公園

 

 ロマンチストな私は、南光川として最も上流部にあたる川面に木材を浮かせ、先の従兄弟と一緒にその流れをどんどん追いかけてゆきました。当時はまだ全く暗渠化されていなかったものの、流れはたびたび住宅の裏をクランク状に屈折しております。したがってそのような場所では見失わないようクランクの前後に分かれました。木材がクランクを曲がったら急いで下流側のもう一人のところまで走り通過を確認し、次のクランクもまた同様に手分けして、確実に川の見える場所で待ち受けるという作業を繰り返しました。しかし、団地はずれの荒れ地に至ると川は急な崖を滝のように落ちていき、木材も一気に消えてしまいました。我々の探索も続行不能となってしまったのです。崖の先には見覚えのあるボーリング場がありました。あくまで主観ながら、その当時ボーリング場ではヴァン・マッコイさんの「ハッスル」がよく流れておりました。常に誰かがジュークボックスで選択していたのでしょう。そのせいか、巨大なボーリングピンのオブジェをみると条件反射でハッスルの小気味よいメロディが頭でリピートし、ペプシコーラ―ここはあえてペプシ―を飲みたくなる病が発症するようになってしまいました。

 

かつて何もなかった南光川の果ては現在「八乙女中央公園」と住宅地の狭間となっております。

 

件のボーリング場は40年くらい前に障害者主体の運営を目的としたスクラムという書店に変わりましたが、現在はイオンビッグになっております。

 

 いずれ、さすがに海にはまだまだ遠いと思い知らされたわけですが、ふと、あの帽子もここから落ちていったのだろうか・・・と、どこか切なくもなりました。森村誠一さん原作の角川映画『人間の証明』の予告編で「母さん僕のあの帽子どうしたでしょうね」という西城八十さんの詩とともに麦わら帽子が渓谷に落ちていくシーンがありましたが、それをテレビでみかけるたびに南光川の帽子を思い出させられました。また、後に『ブッシュマン』という映画のラストシーンでコーラ瓶を山上から雲海に投げ捨てるシーンがありましたが、そのシーンをみたときも何故か木材が流れ落ちた崖っぷちを思い出しました。あの瓶はおそらくコカ・コーラのそれでしょうが・・・。いずれ南光川は無意識のうちに少年時代の私の記憶を美しく彩っていたようです。ドブ川だったのに・・・。

 

南光川に差す朝日

 

 郷愁に駆られてつい余談が長くなってしまいましたが、現在、八乙女小学校からやや南の住宅地に「天ヶ澤不動明王―泉区南光台五丁目―」があります。これはもちろん団地造成後に換地されたものでありますが、南光台第一町内会創立五十周年記念誌『わがまち五十年』に次のような記事があります。

 

―引用―

~天ヶ沢不動明王は天ヶ沢に沿った山道の際にあって、沢水がいつも頭から注いでいたという。

団地の造成で地形がすっかり変わって昔の面影が全くなく、想像さえできないようになっている。その場所は今の地番では、「南光台6丁目20番」付近にあたる。

団地造成で、天ヶ沢(南光川)は少し移動し、かさ上げされた。南光台6丁目の北側が崖になっているが、元はもっと緩やかな傾斜で、団地造成の際に嵩上げされて崖になったものである。

 

天ヶ沢不動明王

 

埼玉大学教育学部谷謙二さん(人文地理学研究室)作成「今昔マップ」に加筆

 

 天ヶ澤不動明王の従前地「南光台6丁目20番」あたりの旧地名は「松森字不動」であったようですが、「不動」は「天ヶ澤不動明王」に由来した地名なのでしょう。さすれば、南光川が流れ落ちた崖のあたりこそが藤原相之助のいう「八乙女の尼澤」であったのかもしれません。なにしろ崖は造成によるものとのことですから、いわゆる八乙女地区と南光台6丁目の境は本来もっと平面的に続いていたのでしょう。もちろん鎌倉時代にもそうであったのかはわかりませんが、少なくとも南光台団地造成直前の南光台五丁目・六丁目の地名は「天ヶ沢」なり「不動」なのであり、藤原相之助のいう「八乙女の尼澤」は昭和八年当時のこのあたりを指していたものと思われます。なにしろ現在の八乙女小学校の所在地名も「泉区松森不動」です。やはりこのあたりに尼寺が展開していたのではないでしょうか。

 もう少し語りたいことが残っているのですが、つい余談が長くなりすぎたので、あらためて後編を起こしたいと思います。