現在の青森・岩手・宮城、すなわち東北地方の太平洋側三県エリアを指していた近世以前の「陸奥國」は、明治期の政策で現在の青森県域のみの国名となり、岩手・宮城の両県域は各々陸中・陸前なる国となりました。それ故にあらたな「三陸」という俗称も生まれたわけですが、各々の境界附近で郷土史を探らんと市町村誌の類に見当をつける際には難儀します。例えば、南部藩発祥地として同藩の重要拠点であった八戸(はちのへ)地域は、南部領を継承した岩手県ではなく津軽領を基本とした青森県に属し、陸中・陸前の境界をまたぐ形となった伊達領の気仙地域はほぼ南部系の岩手県に組み入れられました。気仙地名を冠する気仙沼市―旧本吉郡を含む―こそは伊達系の宮城県に属しますが、旧気仙郡の主要部にあたる大船渡市や陸前高田市は岩手県に属しております。なにしろ、古来気仙郡司の家柄であった金(こん)家の菩提寺「長安寺」は岩手県大船渡市にあり、「金氏家譜」を伝え同系譜の宗家筋と思しき米崎舘ノ下の金家は平安時代に「千厩(せんまや)町奥玉(おくたま)―現岩手県一関市千厩町―」から「横田村―同陸前高田市横田町―」、のちに「米崎舘ノ下―同市米崎町―」に移ってきたという旧家です。一関市や陸前高田市はもちろん、奥州市や平泉町なども藩政時代には伊達仙臺藩領でありました。しかし佐幕を旨とする奥羽越列藩同盟の盟主として薩長主体の新政府軍に対抗した伊達家の明治維新における立ち位置が影響したものか、藩領北部のかなりの範囲が宮城県―仙台県―ではなく水沢県など現在の岩手県に包括されたのでした。岩手県の「陸前高田市」の市名が「陸中」ではなく「陸前―宮城―」であることも当時の混乱の名残と言えるでしょう。

 

河北新報令和四(2022)年11月1日付第二朝刊掲載の図より

 

長安寺

 

 

 「気仙(けせん)郡」について、ウィキペディアには次のように記されております。

 

―引用:ウィキペディア・本稿執筆時現在―

901年成立の日本三代実録に「計仙麻(ケセマ)」という地名の記述があり、これが、歴史上「ケセン」という言葉が載っているもっとも古い文献であるとの説があるがこれは明白に誤りである。正しくは、気仙郡という郡名は『続日本紀』の弘仁2年(811年)の条が初出である。

 

 「正しくは~」とありますが、そこにも明白な誤りがあります。『続日本紀』は、延暦十六(797)年に完成した史書であり、その14年後にあたる弘仁二(811)年の事象が採録されていたわけがないからです。おそらく単純に『日本後記』の誤りなのでしょうが、だとしても、気仙郡の記事を確認できるのはその前年、すなわち弘仁元(810)年です。以前拙記事気仙郡に“来着”した二百余人の狄(てき) | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)でもとりあげた事象になりますが、それが文献上の初出ということになるのでしょう。※注

 正史に明記されるほどの「郡」が存在していたならば、「郡司」も存在していたとみるのが自然ですが、「気仙郡司」の記録上における初出は「郡」そのものの初出から61年下った「貞観十三(871)年」になりそうです。『封内風土記』所載の「気仙郡今泉邑金剛寺」の伝に「清和帝。貞観十三年。大江千里為氣仙郡司。下向居久。欲歸京。託號宥鑁儈。祈之於本郡氷上神社。~」とあり、気仙郡司として下向していた平安歌人「大江千里(おおえのちさと)」によって同寺の創建された旨が語られております。郡司は、律令制下、中央から派遣された国司のもとで郡を治める地方官であり、大化以前の国造など地方豪族から任命される終身世襲の官―『日本史辞典(旺文社)』―なわけですから、国司ならともかく郡司として下向していたというのも違和感を否めないわけですが、なにはともあれ冤罪で当地に流されていたらしい大江千里は、京への帰還を切望し気仙郡の総鎮守たる「氷上(ひかみ)神社」に祈願したらしく、その念願成就の報賽に当該金剛寺を創建したということのようです。

 しかし、「金野家系譜図―一関市千厩(せんまや)町奥玉金野家の系譜図―」は、その貞観十三(871)年に補任された気仙郡司について、同家の祖「阿倍為雄(ためかつ)―のちの金為雄―」と伝えております。同家が大江千里の補任情報を自家の経歴に組み込んだものか、あるいは反対に本来阿部為雄―金為雄―の補任情報であったものを何者かがなんらかの事情で意図的に大江千里に置き換えて伝えたのかもしれません。

 大江千里の名は「塩越村金氏系図由緒記略」所載の「金浦(このうら)―秋田県にかほ市―」地名由来譚―拙記事:とびノ鹽竈:前編 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―にも現れております。蚶満寺(かんまんじ)筆頭総代家の金又左衛門が、由利十二頭の上席に選ばれて信州から下向してきた小笠原大和守重忝の案内役を担っていたわけですが、同情報によればその小笠原大和守は大江千里の末葉とのことでした。

 はて、小笠原氏の先祖は甲斐源氏のはずです―拙記事:栗原と糠部―後編― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照—。大江千里の末葉云々は仮冒なのでしょうか。何故なら、大江氏は「菅原道真」と同じ「土師(はじ)臣」系譜だからです。土師臣の始祖は「野見宿禰(のみのすくね)」であり、出雲旧家の伝を標榜する大元出版系の情報を信じるならば、出雲王国最後の少名彦―副王:次代の大国主―、すなわち東出雲王富家の時の当主でありました―拙記事:磐具公母礼(いわぐのきみもれ)のこと:後編 | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照—。それはすなわち、アベ一族の祖オオビコからみて母方係累の宗家筋と言えるわけであり、「源義家―八幡太郎―」の弟「源義光―新羅三郎―」を祖とする甲斐源氏とは全く異なる系譜です。もしかしたら、小笠原氏を大江千里の末葉とする同情報こそが真相を伝えているのでしょうか。仮にそうであるならば、ひそかに金氏とも縁浅からぬ係累であったものか、もしや気仙沼市の「波路上(はじかみ)―階上―」は「土師(はじ)」に由来した地名か、などとも勘繰ってしまいます。なにしろ大江千里にも菅原道真同様冤罪による不遇な生涯が伝わっているだけに、その人物が気仙郡司を担っていたという伝説の示唆するところは一体何であったのか、やはり気になるところです。

 また、小笠原姓といえば南部一族の豪傑「九戸政実」が「南部氏」ではなく「小笠原氏」であったらしき事情―前述拙記事:栗原と糠部―後編― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照―も頭をよぎりますが、話がズレ過ぎてしまうので割愛します。

 

金剛寺―陸前高田市気仙町内野―

 

波路上の海岸

 

 話を戻しますと、「金氏家譜―陸前高田市米崎舘ノ下金家の伝―」にも「今泉邑金剛寺伝」と同じ「貞観十三(871)年」に気仙郡司云々の情報があります。その年、「阿倍兵庫之亟金為雄(きんためかつ)」が京都で気仙郡司に補されて気仙に至り、金山開発の功によって「金」氏を賜ったというのです。これは先の「金野家系譜図―一関市千厩(せんまや)町奥玉金野家の系譜図―」と同様、郡司に補された金氏の先祖が阿倍氏であったことを直接に伝える史料ということになります。

 気仙はたしかに国内随一の産金地でありました。それは『源平盛衰記』や『平家物語』からも窺えます。奥州藤原氏の繁栄を支えていたのも気仙の金山であったと考えられておりますが、陸前高田市竹駒に鎮座する「竹駒神社」の古記録には、同社附近の「玉山金山」で天平六(734)年に砂金の発見された旨が伝えられているようです―『気仙の通史100項目(気仙歴史文化研究会)』―。つまり、日本最初とされる「小田郡―宮城県遠田郡涌谷町―」の天平二十一(749)年より15年も遡るわけでありますから、もしかしたら当該竹駒神社に伝わるそれは、当地に大和朝廷の権勢が及ぶ以前、すなわち日高見王国―アベ王国―なる異国の事績ゆえに正史に反映されていないだけなのかもしれません。いずれ「金氏家譜」の伝える貞観十三(871)年のはるか前から当地が金の産地であった可能性を窺えるわけですが、文字通り「金」を冠する気仙金氏の権勢がそれに担保されていたことは推して知るべしでしょう。

 

竹駒神社

 

 

 

 一方で、『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』は金氏について新羅系渡来人説を掲げております。

 

―引用―

~金氏の祖先は新羅からの渡来人という。天長元年に、新羅人金貴賀ら五四人を陸奥国に安置して口分田を給与した記事が残されている(類聚国史)。これらの人々が安置された場所が気仙郡のあたりということであったか。~

 

 この説を採るならば、陸奥に安置された新羅人金貴賀係累の人物が気仙郡司に補任される際、陸奥に馴染みの良い阿倍姓を仮冒した可能性が浮上します。「金氏家譜」に記された金山開発と郡司補任の時期についても、金剛寺の伝にみえる大江千里のそれ―貞観十三(871)年―にこじつけたということなのかもしれません。

 ただ、なにしろ吉田東伍の『大日本地名辞書』は弘仁元(810)年時点の気仙郡司を「気仙金(こん)氏」の遠祖とみておりました。つまり、新羅人金貴賀が陸奥国に安置された天長元(824)年の14年前には既に気仙金氏の先祖が郡司であったという想定なのです。

 そもそも陸奥金家の系図はすべからくアベ姓を伝えております。京都で気仙郡司に補された云々という部分は、陸奥安倍家が景行天皇時代に征討された日高見國の王家であったらしき現実を忌避する心理から同じオオビコ系譜で七世紀中期の左大臣阿部倉橋麻呂を輩出した阿倍臣系譜に結び付けたのでしょう。

 いずれ少なくとも彼らが陸奥に安置された新羅人金貴賀の係累であることを記した史料は管見になく、あくまで後世の研究者による想像の域を出ません。もちろん、新羅系渡来人であることを隠すために産金由来の金姓創始譚が後付けされた可能性も考えられるでしょう。しかし、天平六(734)年には既に砂金が発見されていたらしき気仙地方にあって、新羅人金貴賀が陸奥国に安置された天長元(824)年の14年前―弘仁元(810)年―には「気仙郡」の存在していたことを正史が明記しているのです。郡が存在していたのならば当然郡司も存在したはずです。郡司は大化以前の国造など地方豪族から任命される終身世襲の官―『日本史辞典(旺文社)』―という認識に照らしあわせるならば、おそらくは日高見王家の裔たるアベ系の有力者が担っていたはずでしょう。気仙郡司は言うなれば世界も羨む国内随一のエルドラド―黄金郷―を管掌する立ち位置にあるわけで、その垂涎の支配権を、先住の郡司が新参の渡来人にすんなり譲り得たものでしょうか。もしそこに血なまぐさい郡司交代劇があったならば、さすがに表面化していたはずだと思うのです。おりしも文屋綿麻呂による苛烈な蝦夷征討の直後であり、宮廷も奥羽の変事には神経質になっていた時期のはずです。しかし、気仙郡におけるそれらしき相克は『日本後記』にも『類聚国史』にも確認できません。

 試みに、あえて安倍氏説・新羅人説の両説を受け入れて相互の整合性を最大公約数的に咀嚼して推察するならば、日高見王アベ家の傍系が弘仁元(810)年以前から既に産金地であった気仙地方を支配していて、当地の地名―気瀬―を苗字としていたものの、貞観十三(871)年に男系―女系?―継子断絶の危機に瀕したものか、新羅人金貴賀の系譜から迎えていた婿なり養子なりが当主となり、気仙の産金属性とも馴染みが良いことから金氏を名乗るようになったということなのかもしれません。


※注:偽書疑惑のある『大同類聚方』の成立を大同三(808)年と信用して良いのであれば、同書に「気仙郡」の記述を確認出来るので、少なくとも記録上の初出はそれ以前まで遡ることになります。