象潟(きさかた)―秋田県にかほ市―の数キロほど北に、金浦(このうら)―秋田県にかほ市―という地域があります。「平成の大合併」以前は「金浦町」なる単独の自治体でありましたが、旧「象潟町」、旧「仁賀保(にかほ)町」との合併によって「にかほ市」の一地区に生まれ変わっております。金浦地区は同市の市役所所在地の座を獲得し、市名については旧仁賀保(にかほ)町のそれが採用されたわけですが、その表記はひらがな「にかほ」に決まりました。こうなると旧象潟町の不満がくすぶるのは必然で、せめてもの落としどころとして旧象潟町だけは旧町域の全域に「象潟」地名が残されることになりました。「金浦」地名が旧村域限定の大字扱いとなって「仁賀保」地名が消滅したことに比べれば優遇されたとは言えそうです。ただそのおかげで、現在の地図は合併前の各旧町史との照合において不便極まりなく、土地勘のない私は情報の咀嚼にやたらと難儀させられることになるのでした。

 

 

 それはともかく、秋田県には金姓の多いこともあって、私はなんの疑いもなく金浦を金氏ゆかりの地名と考えていたのですが、あらためてウィキペディアで確認してみると「古くは木ノ浦と呼ばれた」とのことです。どうにも腑に落ちなかった私は、当の『金浦町史』でも確認してみたのですが、地名由来の筆頭はやはり「木ノ浦」説でありました。出典は『出羽国風土記』とのことで、やや落胆気味にページをめくってみると、「金(こん)ノ浦から金浦説」の文字が目に飛び込んできました。

 

―引用:『金浦町史』―

金ノ浦から金浦説

 一方、「塩越村金氏(旧名主、金又左衛門家)系図由緒記略」(象潟町郷土資料館資料第一巻)の中に、

「応仁元年(一四六七)九月上旬、由理十二頭定まり、その上席に選ばれた大江千里の末葉、小笠原大和守重忝、信州より海路下向、由理芹田村着船。家門、金又左衛門慰家誠、無名磯部着船により、大和守が金ノ浦と名付く。自今金浦これなり。」

と書かれている。

 このことは、大和守から寄港の浦の名前を尋ねられたが、無名の磯辺で名前はないと答えた事から、又左衛門の姓の金をとって金ノ浦と呼んだものと解釈される。なお又左衛門は十二頭に従って来た人でなく、塩越の豪族で、一行が塩越港に寄港してから、芹田までの船案内役を務めたものと考えられる。

 

塩越―象潟―から金浦方面を望む

 

 これぞ欲しかった情報です。もちろん、木ノ浦説が筆頭ではありますが、金氏に由来する説も史料に裏付けられて併存していたこと、そして当該金氏の本拠が塩越—象潟―であったことをあらためて確認できたことは収穫だと思います。

 『象潟町史』は「塩越町の運営と有力商人の経営」と題した章で、「本荘藩第二の町であった塩越に関する情報は少ない」とした上で、各種資料から十八世紀後半には500戸を超える港町であったとしております。当時としてはなかなかの規模です。また、各種資料に見られる役人名を役職ごとに列記しておりますが、いずれも町名主として、元禄二(1689)年に「今野仁左衛門」、文化元(1804)年に「金仁助」、文政二(1819)年に「金又左衛門」の名が見えます。同町史は、寛政九(1797)年四月十五日発行の船往来手形で「金仁助」が「塩越浦役人」の呼称を用いていることを挙げ、「海にかかわる事項も金家は責任を負っていたことがわかる」としておりました。

 ますます「金ノ浦から金浦説」が有力に思えてきます。仮に、古来「木浦(このうら)」地名があって金氏の定着を機に「金浦」表記が当て字されたものだとしても、むしろそれほどの有力者に登りつめるまでの顛末が町村誌等にほとんど見られない現実は、やはり近世以前まで憚られていたのではないかと邪推してしまいます。

 それにしても、「金又左衛門」の名前は襲名されていたのでしょうか。塩越の町名主にはとりあえず「今野仁左衛門」や「金仁助」の名も見えますが、少なくとも金仁助については『象潟町史』に「金又左衛門とも言い、塩越町の町名主で本陣および廻船問屋を営む塩越きっての豪商であったことは周知のことである」とあります。応仁元(1467)年に船案内役を務めた「金又左衛門」から123年後の天正十八(1590)年、蚶満寺を再興した筆頭総代も「金又左衛門」でありました。さらにその99年後の元禄二(1689)年、象潟滞在中の松尾芭蕉に随行していた曾良の日記にも「今野又左衛門―金又左衛門―」なる人物による芭蕉表敬訪問の旨がみえるのです。応仁元(1467)年から元禄二(1689)年までは二百年以上もの時間差があるわけで、これだけ同名で顕れるのは襲名されていたからでしょう。

 

道の駅象潟「ねむの丘」

 

 

 さて、旧金浦町エリアには異質な「塩竈(しおがま)神社」があります。「秋田県神社庁」のHPによれば祭神は「天鳥船(あめのとりふね)神」と「豊受比売(とようけひめ)神」で、管見の限り、これらの神々を祭神として公称している塩竈神社は全国を見渡しても例がありません。山下三次編『鹽竈神社史料(國幣中社志波彦神社鹽竈神社社務所)』には、大正十五(1926)年に宮城県と鹽竈神社本宗社が照会・蒐集(しゅうしゅう)した全国各地111社にのぼる塩竈神社の情報が掲載されているのですが、不思議なことに同社の記載がないのです。秋田県神社庁管轄下の神社であるにもかかわらずです。大正十五(1926)年当時にはまだ個人の邸内社であったのかとも考えましたが、前述HPには「昭和12年火災に合い社殿全焼後、御神体を宮城県塩竃神社より分霊奉斎する」とあり、もしかしたらそれを機に初めて神社庁に届け出たものか、いずれ大正十五年の調査後12年の間に何かしら事情が変わったのかもしれません。

 『金浦町史』に次のような由緒が記されておりました。

 

―引用:『金浦町史』―

塩釜社由緒―(斎藤助七家文書)から

 塩釜社は、塩釜社の名称以前の元亀年間(一五七〇~七二)に現在地に本地(本尊)観世音菩薩、垂迹オオヒルメムチ神※(天照大神)を祭った小堂が建ち、別当一条院(斎藤助七家)の名が慶長十七年(一六一一)の検地帳の家敷の中にある。

 のち延宝のころ(一六七三~八〇)に、飛村海辺から出現した塩釜大明神を、初めは北の山佐藤久三郎家の裏地にお祭りしていたが、のち現在地に遷座し、社名を塩釜社と改めた。しかし佐藤久三郎裏地の、もともとの塩釜社は引き続き同家で産土神としてお祭りしている。

 享保十八年(一七三三)十一月には塩釜社を大堂に再建している。

※上記「オオヒルメムチ」は漢字表記ですが、文字変換が成らずカタカナで表記しました。

 

 

 やはり本来は個人の邸内社であったようですが、塩竈大明神出現の時期をことさらに延宝年間と伝えていることは気になります。何故なら、延宝年間は『先代旧事本紀大成経』の流行した時代だからです―拙記事:先代旧事本紀大成経が流行した時代――序章―― | はてノ鹽竈 (ameblo.jp)参照—。