平安時代、『延喜式神名帳』に記載がない鹽竈神社は、弘仁・延喜の両主税式において神社としては類まれな、かつ破格な祭祀料を受けておりました。この鹽竈神社に対する朝廷の相反する態度を知った私は、そこにはなんらかの重大な歴史が埋もれている、と考え、拙ブログを開いて論を展開したわけです。
 今でこそ、ウェブで検索すれば鹽竈神社の謎に着目する人も現れているようですが、私が一応の私論をまとめてブログ開設に至った段階では皆無でした。したがって私は、江戸時代から昭和にかけての諸先輩の論考を頼りに手探りでいろいろな資料にあたっていたわけですが、神名帳に記載がない理由としては、「総社」であったから、あるいは宮城郡の他の式内社―志波彦神・鼻節神など―と同体であったから、といった論が中心となっておりました。
 既にさんざん述べているのでここで多くは語りませんが、総社にも式内社はありますし、神名帳に志波彦神も鼻節神もしっかり掲載されている同じ延喜式において、主税式には志波彦神でも鼻節神でもなく鹽竈神と明記されているわけなので、諸先輩の論はあたらない、と考えました。
 結局私が最も妥当と考えたのは、諸先輩達が真っ先に切り捨てた『先代旧事本紀大成経』の「鹽竈神=長髄彦(ながすねひこ)」でした。
 それでこそ、朝廷から類例のない特殊かつ破格な待遇を受けながら『延喜式神名帳』に掲載されず、その後の歴史でも神位勲等を授かった形跡のない矛盾への理由にふさわしいと思ったのです。
 そもそも、人皇初代「神武天皇」の最強の朝敵として正史に残る「長髄彦」を祀る神社を私は知りません。朝敵なのだから当たり前と言うなかれ、神代の事とはいえ出雲勢力として最後まで抵抗したとされる「建御名方(たけみなかた)」も諏訪神として堂々と祀られているのです。
 怨霊信仰の根強い我が国の精神基層からすると、長髄彦はその「建御名方―諏訪大社―」や「大国主―出雲大社―」、「大物主―大神神社―」などと同じくらいに手厚く祭祀されていなければならない先住の王のはずです。
 もちろん多方面に情報を収集してみれば、明文化はされずとも、長髄彦を祀っていると考えられる神社や陵墓がないわけでもありません。
 例えば、「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社―仮説:新藤治さん―」、「広瀬大社―伝承:田中八郎さん―」、「ナベ塚古墳(しょうむない丘)―伝承:司馬遼太郎さん―」などがそう考えられます。
 しかし、“出雲大社や大神神社クラスの鎮魂”という意味からすると、広瀬大社以外の二者には物足りなさが残ります。
 もちろん、石切劔箭神社もナベ塚古墳も長髄彦を祭祀ないし供養している可能性は十分あると思いますが、“朝廷からの特別な扱い”という視点からすれば不足感が否めないのです。
 その意味では、広瀬大社については名実が伴っているように思います。
 何故なら、広瀬の水神の祭祀は正史上でも度々見受けられ、六国史時代にも特別視されていた様子がよくわかるからです。
 しかし残念ながら、それが長髄彦であることを明記あるいは示唆する文献史料が管見にはありません。 現代人の地元の語り部田中八郎さんの著書以外に私は知らないのです。
 そのような現実からすると、『先代旧事本紀大成経』の情報は格段に魅力的です。
 この大成経が語る「鹽竈神=長髄彦」が真実か否かは別として、少なくとも伊達綱村はこの文献の思想の影響を大いに受け、鹽竈の大改革を決行したものと私は考えております。
 綱村が黄檗(おうばく)宗に傾倒していたことは異論を待たない事実ですが、その黄檗宗の三割を占める一派「黒滝派」を立ち上げた高僧「潮音道海」は、一方で大成経流行の中心人物でした。
 大成経は、一部に伊勢神宮の根幹を否定しかねない記述もあったがために大問題となり、潮音を含む関係者が処罰される事態となりました。
 事件前後の時系列を整理しておきます。(かっこ)内は伊達綱村の年齢です。

1661年( 3歳) 3代藩主伊達綱宗罷免・伊達綱村4代藩主相続。後見人政治開始

1663年( 5歳) 鹽竈神社 寛文の造営開始

1671年( 9歳) 原田甲斐、審問の直後に伊達安芸を惨殺

1675年(17歳) 明治8年から200年前――東鹽家文書喪失推定時期上限――※1
           黄檗宗僧侶 潮音により『先代旧事本紀大成経』が出版されたと思われる

1680年(18歳) 延宝八年『黒滝山記』に受戒者七万六百余人とある
           天和元年十一月十四日、神宮祭主ら大成経対策協議
           朝廷及び幕府に大成経の版本の破却の訴え

1681年(23歳) 二月『先代旧事本紀大成経』刊行差し止め、焚書 発禁
           四月、潮音、五十日間館林広斉寺で謹慎

1682年(24歳) 諸国に「新作之慥(たしか)ナラザル書物、商売スベカラザル事」の高札
           五月、潮音の嗣法者鳳山、綱村に請われ利府龍蔵寺の住持となり、潮音を開山とす※2
           七月、潮音、黒滝山不動寺に退く
           潮音、『大成経破文答釈』を著し、各方面に大成経の正当性を訴える

1685年(27歳) 明治8年から190年前――東鹽家文書喪失推定時期下限――※1
            綱村、塩竈村に9ヶ条の特例――経済特区―― 鹽竈大神鎮座地の繁栄をはかる

1686年(28歳) 新義真言宗の僧「隆光」、綱吉の命で将軍家の祈祷寺筑波山知足院の住職となる

1693年(35歳) 綱村、鹽竈神社元禄縁起作成、祭神確定

1695年(37歳) 綱村、鹽竈神社元禄社殿の工事着手
            8月、潮音没す ※『封内風土記』にはこの年利府龍蔵寺開祖とあり
           12月、綱村、吉村―五代藩主―を養子にする

※1:明治8年の『鹽竈神社考』において鹽竈神社権宮司遠藤信道が「百九十年餘も埋もれて」としているため
※2:『封内風土記』には元禄九(1696)年鳳山開山以其師潮音和尚為開祖とあり



 綱村は大胆不敵にも、謹慎が明けて尚大成経の正当性を主張し続ける潮音をもって領内の寺を開山しております―『封内風土記』では元禄九年(潮音の没年)の開山と記録―。これは一歩間違えれば国家に対する挑発行為です。この一事をみれば、潮音の思想に対する綱村の強烈な想いがわかろうというものです。
 鹽竈神社は少なくとも奥州藤原氏時代以来左右両宮の社でありました。綱村はそこに別宮を新設し、社殿配置を大改造し、他に類例のない「ニ拝殿三本殿―三本殿ニ拝殿―」の形に生まれ変わらせました。綱村は何故寛文の造営からわずか三十年しか経っていない社殿の造り替えを決断し、しかも何故このような奇妙な社殿形態にしたのでしょうか。私は、大成経が糾弾される理由となった「伊勢二社三宮説」の影響を受けていたのだと思います。それ以外にこの社殿の謎を説明出来る術はないのではないでしょうか。
 もしかしたら綱村は、古の“登美(とみ・とび)の一族”を意識して大成経が語る鹽竈社の「長髄彦―登美毘古―」と、かつて伊雑宮が祀るとされていた「伊射波登美」を重ね合わせ、結局は別宮祭神の鹽竈神を「岐神(ふなどがみ)―出雲神族富氏の祖先神―」と判断したのかもしれません。
 あるいは、綱村は大成経が語るところの伊雑宮の「天照大神」までをも重ね合わせた上で鹽竈神社の祭神を捉えていたのかもしれません。

 さて、大成経事件の時代は、実は大きな変化の時期でした。
 井沢元彦さんの言葉を借りれば、「国民の常識」が「大転換」した時代なのです。
 しかもそれは、一人の人物の政治でもってひそかに国民の意識改革が成し遂げられました。その仕掛人こそが、五代将軍徳川綱吉なのです。
 寛文四(1664)年、綱吉の母「桂昌院」は、江戸滞在中の日本黄檗宗開祖「隠元」を上屋敷に招きました。
 桂昌院とまだ十代の綱吉は、隠元の法話にたいそう心を打たれたらしく、本格的に黄檗禅の教えを所望し、信頼できる弟子を江戸に派遣して欲しい旨を隠元に要請しました。そこで隠元は弟子の中から潮音を指名して桂昌院に推薦したようです。このとき綱吉20歳、潮音38歳でした。
 国民の意識を大転換させた綱吉の精神基層に、少なからず黄檗宗も浸透していたことは想像に難くなく、しかも、その師が潮音であったことから間接的に大成経の影響を受けた可能性も疑えます。
 綱吉の「生類憐みの令」は母桂昌院が寵愛する新義真言宗の「隆光」の影響であるともないとも言われておりますが、綱吉にとって40代前後の壮年期になってから帰依した隆光と、二十歳前後の頃から20年近くも帰依していた潮音とを比べれば、綱吉の精神基層により多くの影響を与えたのはやはり潮音であったのではないでしょうか。

 しばし、当時の周辺事情などを概観してみたいと思います。価値観の変革の時代に当時のトップインテリジェンスと国家の中枢を熱く揺さぶった大成経事件とは一体何であったのか、なんらかの風景でも感じとることが出来たなら・・・と思います。

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鹽竈神社東参道の狛犬


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