マグシー・ボーグス

 

NBA史上もっとも身長の低いプレイヤー。抜群のスピードと正確なパスを武器に、14年もの間プロ生活を続けた。地元であるボルチモアでの人気は非常に高く、市長選挙に参加すれば間違いなく当選すると言われている。

 
160cm/61kg
ドラフト:ワシントン・ブレッツ(1987年ドラフト1巡目全体12位)

 

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主な記録はこちらから

 

https://www.basketball-reference.com/players/b/boguemu01.html


 

幼少時代

 

メリーランド州のボルチモアで生まれた。当時のボルチモアは非常に治安が悪く、外を出れば誰かが銃を持って殺し合いをしていた環境で育ったとボークスは言う。

 

実父は彼が12歳の時に強盗事件を起こし懲役20年となった。そんな父に代わり、母親の手で育てられた。

 

実名のタイロンの変わりにマグジーと呼ばれ始めたのはこの頃である。"小うるさい"という意味であり、当時の映画のギャング(ボス)にならってつけられた。

 

高校時代

 

地元ボルチモアにあるダンバー高校にてプレーした。NBAプレイヤーであるレジー・ルイスやデイビット・ウィンゲイト、レジー・ウィリアムズは当時のチームメイトであった。

 

2年生・3年生時にはチームは一度も負けることなく、ダンバー高校は伝説的なチームの1つとしてUSAトゥデイによって全国1位のチームに選ばれた。

 

この当時、ボークスは身長をネタにされ試合前は良く笑いものにされていたという。しかし、常に自身の身長と戦ってきたボークスは大舞台でもやれるという自信をつけており、コーチに向かってウィンクし「心配しないで」とジェスチャーを送っていたという。

 

#14、高校生時代のボークス


 

大学時代

 

ウェイクフォレスト大学にて4年間プレーした。1年生時は故郷を離れたことで精神的にも安定しない日々であった。また単位の取得にも追われていたという。しかし、卒業時には所属していたACカンファレンスのスティールとアシスト数で当時の歴代1位を記録するほどの活躍であった。

 

4年生時にはFIBAの世界選手権に選抜され金メダルを獲得した。その時の活躍から"黒い閃光"とニックネームを付けられた。

 

 

 

大学時代のハイライト

 

 

ルーキー時代

 

ドラフトではPGとしては3番目となる全体12位でワシントン・ブレッツに指名された。

当時のウィザーズはエニス・ワトレーがスタメンであり、若手PGとして3人の選手が在籍していたが、いずれもチームのスタメンを任せるには厳しいという評価であった。

そこで、ゲームメイクに秀でるボークスが指名されることとなった。

 

契約金でボークスは母に家を、刑務所にいる父には弁護士をプレゼントした。

 

ウィザーズでは1シーズン所属し、大半はベンチからの出場であった。

 

ボークスのアップテンポな試合運びは当時の経営陣に評価されており、ボークスのスキルセットに合った何人かの選手を連れてくるつもりだと、会議中にボークスには伝えていたという。

 

しかし、それと同時にホーネッツへの移籍はどう思うかについても尋ねられていたという。

 

[参考]

Muggsy Bogues’ experience in Washington should serve as a reminder to the Wizards’ current front office

 

 

 

ボークス1年目はマヌート・ボルともチームメイトであった

 

 

ホーネッツ時代

 

シャーロット・ホーネッツが創設されることとなった、1年目。エクスパンション・ドラフトにてボークスは指名されることとなった。

 

ホーネッツは一時期、リーグでも人気のチームとなり、そのスタメンPGとしてボークスは活躍した。ボークスの早い展開や粘り強いディフェンスは彼の笑顔のキュートさも相まって多くのファンを魅了した。

 

当時、ボークスと共にプレーしていたレックス・チャップマンはインタビューでこのように答えてる。

「スコット・スカイルズやケビン・ジョンソン、スティーブ・ナッシュ、ジェイソン・キッドと共に私はプレーした。しかし、それらの選手がマグジーより優れていなかったと絶対的な自信を持って言えるよ。彼は小さいが世界最速の男でボールを持っている方が早いくらいなんだ」

 

[参考]

Why There’s Much More to Muggsy Bogues Than Height and Numbers

 

ホーネッツには10年在籍し、チームのアシストとスティールで総合1位をキープしている。

 

 

 

 

 

 

その後のチームでのキャリア

 

ホーネッツ10年目の途中でウォーリアーズにトレードされることとなった。

 

その後、ラプターズでヴィンス・カーターと共にプレーした。

ラプターズではベンチからの出場ながらもリーダーシップを取り、ラプターズのプレーオフ出場に大きく貢献した。

 

 

 

引退後

 

2005年までは不動産業に従事していた。

 

2005年、シャーロット・スティングのヘッドコーチに就任

経験がほぼ無い中での抜擢であった。

 

2011年、ユナイテッドフェイスクリスチャンアカデミー男子高校(シャーロット)のヘッドコーチに就任

 

2014年、シャーロット・ホーネッツのアンバサダーに任命される。

 

#2020年9月の写真。ゲイリー・ペイトンやホーレス・グラントらもいる

 

 

元NBAプレイヤー、アール・キュレトンとのCM(2018年)