主な記録はこちらから
 
https://www.basketball-reference.com/players/j/johnske02.html
 
ニックネームはKJ。ドリームチームⅡのメンバー。185cmながら高い身体能力でCの上から強烈なスラムダンクを叩き込むこともあった。スピードを活かしたプレーが得意。
 
スポーツの才能があり、学生時代にはメジャーリーグからもドラフト指名されたがNBAを選んだ。
 
現役時代
 
ドラフト指名されたクリーブランド・キャバリアーズでは、当時スターだったマーク・プライスの控えとしてプレーしたが52試合を経過したのち、フェニックス・サンズにトレードされた。
 
サンズではスターターとしてすぐにプレーし、チームの中心選手の一人となった。
 
2年目からはシーズン平均20得点、12アシストを記録しMIPを受賞した。以降も3年連続で同等の記録を残すなどスター選手として活躍した。
 

 

 
1991年のオールスターではチームメイトのマーク・ウェストの背番号41を着用した。これは目立たず縁の下の力持ち的な存在であったウェストを称える気持ちからだという。このころから人格者として彼を支持するものも多かった。
 
1992-93シーズン、26歳の時にはチャールズ・バークリーとともにシーズン62勝を記録。プレーオフではチームをNBAファイナルに導いた。ファイナルの相手はシカゴ・ブルズで当時最強であったマイケル・ジョーダンをチームメイトのダン・マーリーと交互に守りあった。相当な苦戦を強いられたことで、ジョンソンのプレーメイクに影響し、それが第1・第2戦目のジョンソン自身の不調を誘発したと言われファンから避難されることとなった。その際、バークリーが会見で「ジョンソン無しではファイナルに行くことは出来なかった」とアピール。
 
このシーズンにヘルニアが悪化。以降、しばらくは怪我で出場できないことも増えた。
 
1996-97シーズン、30歳の時はジェイソン・キッドとコンビを組んだ。キッドとともにPGが2人という変則的な体制であったがプレーオフに出場。ジョンソンも久しぶりに70試合に出場するなど復活を見せたシーズンだった。
 
31歳で1度引退したが、33歳の時にはキッドが負傷しプレーオフに出場できなくなると、チームの助けになるため復帰。シーズンを6試合、プレーオフ9試合に出場した。
 

 

 
引退後
 
2008年、故郷であるサクラメント市長に立候補。23歳の時より教育改革に積極的に取り組んできており、ついには実を結び、市長に当選した。
 
2011年、コロンビア特別区学校の元首相である女性と結婚し、テネシー州の山岳リゾートで挙式を上げた。
 
プライベート情報
 
The Kevin Johnson Corporationという、不動産開発・スポーツ管理などを行う事業を営んでいる。学校を中退した子どもたちを救うための団体を運営している。
 
飛行機が苦手。移動中は英文学を読んで空を飛んでいることを紛らわせているそう。

 

現在の姿

 

 

パトリック・ユーイングの上からのスラムダンク

 
 

アキーム・オラジュワンの上からのスラムダンク