前回、福岡市下山門の付近に、古代ヤマトの集落があったという仮説を述べた。
吉野ヶ里遺跡の付近にも、「大和」という地名が残っている。
吉野ヶ里は、「邪馬台国九州説」の有力な比定地だ。
福岡県八女市の南にある山門郡も比定地の一つだ。
邪馬台国九州説の比定地は、他にも多くある。
私自身は、邪馬台国がどこにあったかということを、述べるつもりは無い。
多くの学者が議論を戦わせても、結論が出ないのは、現状の考古学的証拠では解決しないと言うことなのだろう。
しかし、なぜ日本には、「ヤマト」という地名が多いのだろうか?
邪馬台国との関連性を、除外して考えてみると、スッキリするのかも知れない。
以下のような仮説は、どうだろうか。
+ + + +
「ヤマト」一族が、大陸から渡来したのは、ほぼ間違いないといって良いだろう。
となると、まずは九州の沿岸地域に住みついたはずである。
やはり、小戸の神話のある、筑紫の日向でもある、福岡市下山門は、日本における初期の橋頭堡であったと考えるのが自然であろう。
そして、そこを拠点に発展し、他所に移動した、もしくは、一族の一部が移住したと考えられないだろうか?
例えば、内陸方面に山脈のすそ伝いに南下すると、佐賀平野に出てくる。そこは、吉野ヶ里のある「ヤマト」だ。
さらに、南下すると、福岡県山門郡の近辺にたどり着く。
それとは別に、天照大御神を崇めるヤマト一族に、日の昇る方向にこだわって、「東」のルートを辿った一派もいたのではないか。 (過去の投稿「宇佐八幡宮の東遷」 http://ameblo.jp/shinzuru/entry-11171630407.html )
「筑紫の日向」から東に進むと、大宰府があり、耶馬渓があり、宇佐八幡宮があり、その先には国東がある。
国東半島からさらに船で東に進むと、大阪湾にたどり着き、「大和」に至る。
これが、’’日向‘’から大和に移った「東征」の現実的なルートだったのではないだろうか?