Q8. かつて日本は、「呉」から来た人々と「越」から来た人々が入り交ざり、呉越同舟という状態だった。
呉越同舟(【キーワード】:中国、戦国時代の呉と越の両国は、実力伯仲の好敵手で、「呉越」の語は
仲の悪いたとえとされていた。その敵同士が一つの舟に乗って仲よくしていることを例えた言葉。)
詳しい説明:ウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B
)
まあ、容易に想像はつく。
問題は、この仮説を、サポートできる「足跡」をどこまで、考えつくかだ!
中国の春秋戦国時代に、「楚」「呉」「越」という国々が栄えた。
結果的に、「呉」 → 「越」 →「楚」の順番で滅んでいく。
まず、「呉」が紀元前473年に「越」によって滅ぼされるが、この人たちは、どこへ行ったのか。
日本は「呉の太伯の末」という古い文献があることから、一部が日本に来たのは明白だろう。
( 参照:http://ameblo.jp/shinzuru/page-2.html
)
揚子江流域から直接小さい船を出し、九州に到達した勇敢なグループもあったようだ。
丸木舟に毛が生えたような船上で煮炊きに使ったと思われる携帯かまどの土器まで見つかっている。
現在でも、この地区の漁船が長崎に流されてくることが、頻繁にある模様。
また、一部は北上し、山東半島から渡海して大連に渡り、朝鮮半島経由で日本に入ってきたグループもあるようだ。
一度、地図でご確認いただきたいが、このルートなら東シナ海を横切る大冒険に比べて、海上移動距離が少ないため、危険度も低かったと思われる。
きっと、大勢の部下を引き連れて、日本の支配者階級となった、亡命「呉」王朝の特権階級者たちは、このルートで日本に入ってきたのだと想像する。
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一方、「越」も紀元前334年に「楚」に滅ぼされる。 「越」は南北に散った。
南下したグループは「百越」という国を立て、それが「南越」となり、やがて現在のベトナムになっていく。
北上したグループは、山東半島に亡命政権を立てていたが、霧散する。
どうやら、100年前に呉人が逃げていったルートをたどり朝鮮半島に住み着いた。
「越」という字と「倭」という字は、当時同じ読み方をした。「Wo」や「Wu」と発音したようである。
現在でも「越智さん」という苗字の方がいるが、「越」を「お(を)」と発音するのはその読み方の名残だと言われている。
つまり、「越」は「倭」になったのだ。
「倭」は、当初、朝鮮半島の西海岸沿岸一体を押さえていた。九州北部はその領土の一部だった。
後に、「倭」は「百済」と同化し、朝鮮半島のその領土の大半は百済領になっていく。
ちなみに、「百越」と「百済」の国名も良く似ていると思うのは私だけだろうか?
越人は、日本に「越前・越中・越後」で知られる地域に「越」の国を建てた。
継体天皇は「越の国」の出身であると、古事記や日本書紀にも書いてあることから、ひょっとすると、現在の
皇室は「呉」ではなく「越」の流れを汲むのかも知れない。
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いずれにせよ、時代とルートはばらばらだけど、「呉人」と「越人」は日本に入ってきた。
日本に「呉人」や「越人」と思われる渡来人たちが、大量に押し寄せたこの頃、日本は「百家騒乱」という状態だったと、中国の史書に記述されている。
まさに呉越同舟。先に日本に入った「呉人」とあとからやってきた「越人」が日本各地で因縁の対決を、ドンパチやっていたのだろう。