【第3721回】




文学史でいう何々主義というのは

理論から出たのでなくして、個人の作物から

出たのであって、その作物の大体を鷲掴みにして、

そうしてもっとも顕著に見える特性だけを

目掛けて名を下したまでであります。


元祖がすでにそうであるからして、

継いで起るものの分類も、みんなこの格で

何主義のもとに押し込められてしまう。



(p.149「社会と自分 漱石自選講演集」

 夏目漱石 筑摩書房 1913年初刊行) 



引用は漱石先生が考える、


歴史の取り扱いに対する

問題点を述べています。


それは、ひとつの歴史の

筋書きに対して


全くの偶然による

強い個性の影響があって


その影響が複数の人びとに及んでも

個性をそのまま反映しておらず


顕著な特性だけでもって

反映されたものである

というわきまえを持て


というものなのです。


簡潔に言い換えるなら

「主義」とつくような思想に関し


同じ思想をもったからと言って

出所を全てを分かった気に

なってはならない


と言えるでしょう。


分かった気になるのは

妄想であって、


いつか狂気につながるのではないか

と僕には思えます。





僕は、そういう意味で

ひとりの偉人を好きなったら


その人だけを調べ、

考えるようにしています。


例えば、ジョン・レノンが

好きだからと言って


ロック全体を素晴らしいなんて

思ってはいませんし、


立川談志や志ん生が

好きだからと言って


落語全体を好きだ

ということは無いように、


「思想以前に、人物が先だ」


という漱石先生の言う通り

人物の理解が重要だと感じるのです。


最近ではクラシックを

好んで聞きますが


それはカザルスや

フルトヴェングラーを通して

好んでいるのであって


クラシックであれば何でも

ということでは決してありません。





科学的なエビデンスと


人物を理解する時の証拠というのは

全く違います。


ある証拠をもって

因果として解決するように

人間はできていないからです。


ある人とは仲良く話したり

思慮分別があるようでも


こと、妻や部下などに関しては


全く横暴な、無茶苦茶な論理で

罵倒するような人格の人は


必ず、います。


それはフロイトの

「無意識」の発見による

心理学が解明するところですが


物的な流れとは違った働きをする

のが人間なのです。


そのことは、僕らは

世間でいくらでも見聞き

しているにもかかわらず


ある人物を祭り上げるときには

そのことを全く無視してしまいます。


それが狂信であり、

思想の危ういところなのです。





自分にとって身近な人間を

例にとればわかりやすいですが


人間を簡単に鷲掴みに

分かろうとしても無駄です。


そういう分かり方をすれば

必ず不和を招きます。


ご参考まで。