【第3565回】




今日は覚書として


民主主義の政治に関する

定義、前提について

述べてみます。


覚書というのは


今から考察する元となる書籍を

思い出せないことがあって


ドラッカーや

行動経済学、心理学の本で

述べられていたことを


ベースに思考していると

考えてください。





民主主義の政治とは

一般的に衆愚政治と

揶揄されることがあります。


それは、単純に

賢い人間と、感情的な人間

ということで測るとき、


圧倒的に賢い人間のほうが

少ないことは明白だからです。


誰に聞いても、この印象は

変わらないと思いますが


行動経済学で

人間の心理傾向を見ても


考えることを避けるために


直感、感情で判断することが

極端に多いのですから

当然と言えます。


ではなぜ民主主義が

現在取られるかというと


多くの人間の合意を得る意見が


当たり障りのない

つまり、極端な政策や

対応を求めないものに


収束していくので


過去に起きた帝国主義や

共産主義がはらんだ

全体主義に比して


「マシな結論」を

 

得られやすいからです。


現在からみて、我々は過去の

全体主義をバカにしていますが


当時の人びとには

合理的な正しさ、解決策に

見えていたのですから


いつでも自省する

必要があります。





以上に述べたように

衆愚政治がマシだとしても


問題をあやふやにして

先延ばしにすべきでない


と考える場合があるでしょう。


このことについても

ドラッカー先生は


日本が先延ばし政治の

良い例として挙げており、


世界でもっとも

成果をもたらした方法だ

と述べています。


どういうことかというと


現状において

矛盾した対立がある場合


無理やりにどちらかで

解決させるのではなく、


検討中にして

先延ばしにしておくと


いつの間にか時代が進んで

問題が問題でなくなっていた


ということがあるのです。


無関係な別の

イノベーションによって

問題が意味を無くした


と言い換えても良いでしょう。


そこを無理やりに

 

断定的な方法を取れば


それが後々まで

悪影響をもたらす場合があって


その時には、「なんで

こんなことを過去に決めたのか」


と言われるほど馬鹿げた状態に

なるわけです。





言い出すとキリがないので

ここらへんでやめますが


何が言いたいかって


都知事選で話題になっている

石丸さんが正しく見えるのは

単なる錯覚だ


ということです。


安芸高田市で他の議員を

見下しながら


石丸さんが市長として

政治をしている様が


切り抜き動画で多く見られますが


実際は、議員たち、

彼らの集合的意思の方が

マシな可能性が高いと言えます。


動画のコメントを見ると

石丸さんを絶賛するものが

ほとんどなので


YouTubeの客層が

そういう種類の

ものかもしれませんが


いずれにしても

政治や社会学、経済学でも

明らかなように、


そこにいるのは

不合理な感情も含めた

人間なのですから


正しくさえあれば

解決するというのは


翻って、

思考が全く足りていない

と言うことができるのです。


個人的な意見として

ご参考まで。