【第3559回】




感情を抑える、あるいは発散させることよりも

はるかに健全な選択肢は、感情を乗り越えることである



(p.218「第3の案」

 スティーブン・R・コヴィー 

 キングベアー出版 2011年)




僕は仕事をする場合

「やる気」、という

感情に頼りません。


僕の心からの目的、


家族に対する愛情や

責任を果たしたいという

願いをかなえるために


仕事としてどのように働き

どのように成果を出すべきか


論理的に考えたうえで

しっかり実行する

だけだからです。


やる気など関係ありません。


これは綺麗ごとや

自画自賛ではなく、


「気持ち」では

仕事として成果を出しにくい

と感じたから


そうせざるを得なかった

というに過ぎないのです。





ただ、だからと言って

僕から感情が

無くなっているかというと


決してそうではありません。


ちゃんとあります。


あるにもかかわらず

それは反射であり、

反応に過ぎないもので


解決とは関係ないと

考えるだけなのです。


ちょっと、

卑俗な話ではありますが


女性に対する性的な感情

についても同じだと言えます。


その感情はいつでも

あり得るもので


だからといって

その感情を自分のものとして

表現するほどのものではない


と解釈した後、


女性に不快な思いを

させるような態度を

慎んでいるに過ぎないのです。


感情を否定し、抑圧をするから

犯罪的な倒錯に陥ります。


そういう意味で、

親が植え付ける男女観には


犯罪の萌芽が含まれる

重大な影響があるのです。





感情はただ感じていても

仕方がありません。


いつでもそれが自分に対して

どんな意味を持つのか


客観的であるべきです。


それは恐怖や不安においても

同じことであって


過剰なリスクを取らないためには

ある程度不安が役に立つし


取るべきリスクなのに

過剰に不安になれば


望む成果は得られません。


方や、「やる気」の効果は

それがないときの

反動として理由付けとなり


やらない理由として


「やる気」のなさを

持ち出すこともあるでしょう。


そうであるなら「やる気」は

コンスタントな成果という

目的に適いません。


「大谷選手がホームランを打つと

やる気が出て頑張れる」


という人がたまにいますが

同じことです。


ご参考まで。