【第3554回】
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刺激と反応の間にはスペースがある。
そのスペースのなかにいるのはあなただ。
自分がどう反応するか、あなたは何の束縛もなく
自由に決められるのである。
そのスペースのなかでこそ、
あなたは自分自身を見るのである。
あなたはそこで、自分自身の最も深い
価値観もみつけるだろう。
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(p.217「第3の案」
スティーブン・R・コヴィー
キングベアー出版 2011年)
通常、このスペースには
気付いていないものだそうです。
だからこそ、反応には
二つのものしかありません。
つまり、反応するか、
しないか、だけになるのです。
例えば、
刺激を「批判」として
反応を「怒り」とするなら
反応には「怒る」か、
「無視して我慢する」かしかない
ということになります。
もちろん、そんなことは
ないのですが
スペースに気づかなければ
自分が傷つくことを選択した
事実が見えないまま
怒る事は当然である
と解釈して譲らない態度を
持ち続けるのです。
…
刺激と反応の間に
「自分」がいることに気づけば
感情を絶対視することなく
客観的に処理したのち、
批判から生産的な解決を
導くことが可能になります。
このことはあまりに
抽象的な話であって
具体事例が
どのようなものであるかは
自分の経験から
振り返るしかないでしょう。
重要なのは
必ず、反応に至るまでに
自分がその感情を
ある理由から選択している
という視点で眺めることです。
その理由が分かれば、
正確には「納得」すれば
反応の選択を能動的に
実行できるようになります。
…
ただし、その「納得」が
通常、至難の業です。
なかなか納得などできません。
現時点の反応の選択以外は
自分自身の否定に感じるし、
それはそのまま
恐怖になるからです。
ある価値観から怒りを
選択していたとして
その価値観が自分自身にとって
他に補填できると
到底思えないなら
他の依存対象が表れない限り
怒りは手放せません。
…
自らの反応によって
生きづらさを感じている、
こういう心のすきを狙って
新興宗教や、ホスト、詐欺師
いろんな落とし穴が出てくる
と考えてよいでしょう。
個人主義になって、
あらゆることが自己責任になれば
人間関係に救いなどありません。
「救い」の差をつけるのは
能力、スペックだけであって
あとは奴隷のように
死を待つだけの
暮らしになるでしょう。
グローバリズムの進歩、
発展の先にあるのは
こういう世界観です。
進歩や物的な発展を
僕らが止めることはできません。
だからこそ草の根で
価値観の変更、理解、
生き方の選択について
模索する必要があると感じます。
ご参考まで。