【第3533回】



オーディオについて

専門に語るという趣旨の

YouTubeチャンネルを見かけました。


その動画の方いわく、

オーディオの音質に関して

すでに最高の域に達しており


僕らの耳で判別できる

ようなものではないそうです。


つまり、無用の長物であって


聞く人によっては

耳に痛いようなクリアさがあって


「心地よさ」すら失っている

という状況になっています。





このことに関して

昔の技術者はAV機器に

集まったものですが


どんどん花形が変遷して

いまはAIになっており、


消費者の需要としても

オーディオだけがコンテンツ

では無くなっています。


最高のコンテンツとして

認識もされていないため


動画やゲームに割く

出費などのバランスから


オーディオ自体も

購入されていないようです。


僕が中学生ぐらいだった

30年前、1990年代時分には


ラジカセやミニコンポなど


音楽をより良く聞くための

オーディオが、確かに


ものすごく欲しかった

記憶がありますが


僕の子どもたちなどは

パソコンに

MP3プレーヤーがあれば


それで満足しており

欲しがる素振りすらありません。


(スマホやゲーム機器もありますが


それは常態化し併用されて


コンパクト化してます)






オーディオに関して

1960年代に

批評家の小林秀雄さんは


「どれだけ高音質になろうと

僕らの耳で聴きとれるだけの

ものでしかないし、


体調によっても

聴こえ方が変わる、


重要なのは音楽の質であって

音波という量などは

すぐに受け取れる限度が来る」


と看破していました。


その通りだと思いますし、

今の若い人の

音楽の受け取り方を見ると


やはり精神で要求する分だけ

聴こえれば良いものなのです。





何が言いたいかって、


AIの技術に関しても

おそらく僕らの精神によって

すぐに限度が来るだろう


ということです。


映画マトリックスなどは

よく本質を捉えていると

感心しますが


AIがどれだけ高度になって

あらゆる情報を支配して

全てを計算できたとしても


結局、人間が求めるものは


現実の世界の不確実性のなかで

必死に生きること

でしかありません。


そのことをマトリックスでは


人間が機械の電池になって

AIの作った空間を、脳内で

現実のように生きているだけ


という皮肉でもって

表現しています。





こころと記憶は

密接な関係があって、


というか同じものであって


それはただ一回きりの

個人的なものでしかありません。


いくら技術が高度なものを

提供したところで


その「自分」から離れて

体験できるものではないし


自分こそが重要なのは

明白なのです。


自己中心的であるのは

自分がないからであって


本当の意味で

自分自身で生きる人には


自分という意識はなくなって


目の前の対象とより密接に

関係することができます。


そこに物的な高度さは

関係ありません。


個人的な意見として

ご参考まで。