【第3518回】
最近、ハラスメントの
種類が多くなったと
メディアを目にして
よく感じるようになりました。
ハラスメント自体は
「嫌がらせ」や「いじめ」という
行為する側の能動的な
意味を持っていますが、
昨今、言葉として認定されるとき
「嫌がること」、
「不快感を与えること」
というある意味、受け手の
感じ方を主体として
述べられているようです。
この場合、ハラスメントを
回避しようとするならば、
相手に対する想像力を
要するのは間違いありません。
言い換えれば、
能動的な悪事を止めるだけ
では足りない
ということができます。
…
ハラスメントを
「想像力を要求する問題」
とするなら
一般的にあまりにハードルが高く、
個人主義の世の中で
悪意を増幅する作用しか
もたらさないように思います。
相手に対する想像力が不可欠で
それが難しいとするなら
個々人の分断だけが解決となり、
他人に対してならまだしも
友人、恋人、家族など
本来、努力すべき対象まで
ハラスメント回避のために
放棄するに至るでしょう。
最低限、いじめや嫌がらせの
悪意を持っていないとするなら
「嫌だったんだ」
「ごめん、悪気はなかった」
で済ませることはできないものか
と思います。
…
とはいえ、それで済まないのが
人間というもので
相手の価値を認めることができず、
自分の価値を分からそうとして
結局、悪意のハラスメントに
なってしまうかもしれません。
アメリカナイズされた
「多様性」がその原因ですが
わがままと、社会性を
ごっちゃにした価値観に
何らかの形で決着を
付けるべきだと思います。
個人的な意見として
ご参考まで。