【第3435回】




昨日の記事では


社会の在り方に一貫性がなくなり、

多くの人が適応を

障害させられている


ということを述べました。


そういう社会の変化に関して

感じていることの一つを

今日は述べてみます。


それは、思いやる行為と

感動させられる行為の


差がどんどん開いている

ということです。


これは、いずれ高畑勲さんの

エッセイをテーマにして

多角的に考えたいことですが


芸術作品の在り方の変化が


その先導をしている

ように思います。





簡単に言えば、

昔は一つの作品を

読む、聞く、見るというとき


ひとつのまとまった本、

CD、レコードでも良いですが


形に向き合い、

こちらから入らないと


感得などできませんでした。


それがサブスクなどのように

短く、ランダムに

餌を与えられるように


提供される環境になって


まとまった作品の想念を

じっくり受け取る

態勢ではなくなったのです。


感動はします、感情は動きます、

しかしそれだけであって


癒しはあるでしょうが、

精神は使っていません。





僕にとっては最近、

昔の録音のクラシック音楽が

非常に楽しくなってきたので


名盤を漁っては何度も

聞きまくっているのですが


一つ一つ向き合う作業が

面倒ではあるにせよ


精神が集中できるので

心地よいのです。


散漫な環境が普通になることで


かえって集中の重要さを

実感するようになりました。


個人的な意見として

ご参考まで。