【第3434回】




昨日の記事では

「過酷な子育て環境」

にある親たちに対して


年長者は支援しなければならず、

自分達の主張など後の事だ


ということを述べました。


そのなかで、どう過酷なのかを

説明していなかったので

そのことを補足します。





実際のところ、

僕の中でもまだまとまった

話ではないので


覚書程度に述べるに

とどまるのですが、


ひとつ言えるのは


この社会に一貫性がない

ということに尽きるのです。


昔は、子供が生まれ、育ち、

学業をして仕事をし

家庭を持って子どもを儲けて


繁栄を目指すことに

何の疑問も無かったはずで、


社会も、その体制で

人間を支援していたため


ある意味で、レールの上で

しっかり走ることを

考えていればよかったと言えます。


今は、その中にアメリカ仕立ての

個人主義が入り込んだのです。


それぞれの権利や要求が


豊かさと欲求を伴って

変化を促したため


社会の在り方や生活に

一貫性が失われました。





このことを子育てに

絞って考えると、


偏差値教育、ゆとり教育を挟んで


子どもの自主性を重んじて

それぞれの人権を尊重する


そういう体制に

学校は変化してきました。


もちろんこの環境に


子どもは良くも悪くも

順応し、受け入れながら

育っていくことになります。


にもかかわらず、


資本主義社会にでて、

仕事をするときには、


ひょっとすると受験の時から、


能力主義、成果主義で

評価されることになり、


自主性も人権も二の次に

されるのです。


米国スポーツの価値観が

この偏見に一番寄与しています。


しかし、大谷選手のように

能力に優れた人間にとっては


自主性も人権も保障されている

ように錯覚するでしょう。


これで子どもが混乱しない

はずがありません。


適応障害というカテゴリーも

生まれたわけですが、


この社会は一貫性がないため

適応を障害してくる


と言い換えた方が

良いくらいなのです。





親は共働きしながら

子育てをしますが

誰にも協力してもらえず、


しかし、子どもに愛情を注ぎ、

自尊心を満たさねばらない


そういう目に見えない

圧力にさらされます。


ところが、そうやって

子どもの身の丈で

丁寧に育てたかと思うと


先のような一貫性のない

社会の圧力によって


二段階目の子どもの情操を育む


試行錯誤を始めなければ

ならないのです。


これが働き盛りに

常に付きまとう問題として

悩まされることにもなります。


もちろん、多様な学問を

要求されることでしょう。





このことを指して僕は

「過酷な子育て環境」

と呼びました。


物的な豊かさなど

なんの効果もありません。


個人的な意見として

ご参考まで。