【第3408回】
昨日の記事に関連して
世代感覚のギャップの原因を
もう一つ述べてみます。
それは今や過去の
サブカルチャーが
メインになったのだろう
ということです。
アニメゲームのサブカルを
本気で追及する人を
オタクと呼んだわけですが
そのオタクは一般に普及して
「~推し」などのワードへと
変貌しています。
…
そもそも
なぜ、過去のサブカルを
「オタク」のようなワードで
ある種の軽蔑を伴う
態度で眺めたかというと
非現実であり、妄想的
だからだろうと思います。
それは始め、小説も
同様だったわけですが
リアルに心を表現するものだ
という市民権を得て
今や文学の代名詞に
なっています。
ところが、今回の
サブカルのメイン化は
リアリティを伴うことなく
妄想のまま受け入れられたのです。
…
それは高畑勲さんの
宮崎アニメに対する批判
そのものであって
高い没入感を与えながら
しかし、そこには
エクスタシーとも言える
ご都合主義が蔓延っています。
そこにハマって出られないまま
大人になることで
いつまでも現実が受け入れられず
苦痛を伴うものにしか
見えなくなるのです。
そこに、現代日本の
無気力が絡んでいます。
…
この説が本当かどうか
確かめることは難しいでしょう。
しかし、高畑勲さんは
「引きこもるには
サブカルの癒しがないと不可能だ」
という言い方をするほどに
その力の負の側面を
感じていたのです。
僕にとっては
修学旅行を凌駕する
その麻薬的な魅力が
驚きとともに
妙な実感を得て理解されました。
昨日の記事に関して
そのように感じています。
ご参考まで。