【第3290回】
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傍観者でいる間は、他に対する道義上の要求が
ずいぶん高いものなので、ちょっとした紛紜でも過失でも
局外から評する場合には大変苛い。
すなわちおれが彼の地位にいたらこんな失体は演じまいという
己を高く見積る浪漫的な考えがどこかに潜んでおるのであります。
さて自分がその局に当ってやってみるとかえって
自分の見縊った先任者よりも烈しい過失を犯しかねないのだから、
その時その場合に臨むと本来の弱点だらけの自己が
遠慮なく露出されて、自然主義でどこまでも押して行かなければ
やりきれないのであります。
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(p.123「社会と自分 漱石自選講演集」
夏目漱石 筑摩書房 1913年初刊行)
まず、浪漫的とは
道義的といってよいでしょう。
そして自然主義は
成り行き、思いのまま
と考えて良いものです。
これは世間を見ていれば
よくあることで、
上司の悪口を言っていた
部下が昇進した途端
上司のように
だらしなくなるとか
与党を罵倒していた野党が
政権をとった途端
何もできずに
無茶苦茶をやらかすとか
首相になるまでは
偉そうだった奴が
首相になったとたんに
弱腰になるとか
挙げればキリがありません。
…
ガッツ王子で好きだった
ジャンポケ斎藤という芸人は
いじめに関する講演などで
絶対に許さないと
熱弁をふるっていましたが
不倫問題を起こして
降板が相次ぎました。
実際に自分の身に
ふりかかった時、
苦境に立たされた時
その時に人間の真価が
問われると、僕はいつも
感じています。
普段は浪漫的に生きるのが
人間というものですから
その時の態度など
どうということはないのです。
だからこそ、危機的状況、
誘惑的状況にどう対処するか
シミュレーションして
精神を鍛えることも
重要だろうと思います。
自分の弱さを道義的な態度で
隠そうとしているなら
なおさらです。
ご参考まで。