【第2964回】



人が亡くなる、というのを


父が急逝して一年ちょっと

経過した今、よく考えます。


自然と、父親との過去の

経験を思い返すわけですが、


その時の「寂しみ」というのは

父親が亡くなったからではない


と思えるのです。


「既に過ぎ去って、

そこにはもう存在しない」

という意味で言えば


今生きている母親であろうと


高校時代から20年以上

連れ添う妻であろうと、


はたまた、成長した

我が子との経験においても


「もう取り戻せない」

に違いありません。


今、20歳過ぎた娘が

幼稚園に通っていた時の


喋り方や抱っこの感触


そんなことを

思い返そうとするだけで


妙な寂しみが湧いてきます。


それ自体は、

悪いことではないので


悪感情と言う意味では

決してありませんが、


人が亡くなる、


そのことを契機にして

過去におきた触れ合いを


再体験し、解釈

し直しているのです。





父親が過ごしていた

30代や40代の記憶、


そんな年齢に

息子である自分が来た、


という時に思い返す

父親の姿というのは


見え方が全く違います。


父親が果たしていた役割、

その役割が自分にやってきて、


同じように

果たさなければならない、


父親も今の僕と同じように

感じていたのだろうか


と思わされます。


それも人生の味だろう、

と考えるのは


秋の空気感のせいも

あるかもしれませんが、


この子育てをしている

「今」という時ですら


未来の自分にとって

輝いて見えるかもしれない


と考えると、非常に貴重な

気がしてくるのです。


個人的な考察として

ご参考まで。