【第2907回】




物の内容を知り尽くした人間、中味の内に生息している人間は

それほど形式に拘泥しないし、また無理な形式を喜ばない傾きがあるが、

門外漢になると中味が分からなくってもとにかく形式だけは知りたがる、

そうしてその形式がいかにその物を現わすに不適当であっても

何でも構わずに一種の知識として尊重するということになるのであります。

(中略)

専門の学者もまたそう威張れた義理でもないような概括をして

平気でいるのだから驚かれるのです。



(p.84「社会と自分 漱石自選講演集」

 夏目漱石 筑摩書房 1913年初刊行) 




漱石先生が例えるのは


「自由でありたい、

開放されたい」


とあらゆる意味で

個人が望みながらも、


世界に必要とするのが


「秩序であったり、

組織的な力による

文明や豊かさ」


ということです。


相反することを

無理に望むことが


馬鹿げているにもかかわらず、


学問の門外漢である大衆は

自由、そして秩序という


その形式だけを


知識として知っただけで

安心しています。


さらに、問題なのが

専門である学者であっても、


世界には、

自由と秩序が必要で


それが同時に成されるべきだ


と本気で言う人がある

という所なのです。





中味を知らないし、

知ろうともしないのは


知識が形骸化して

意味を失います。


意味を失えば、

矛盾したことを


本気で要求するようになり


周囲や世の中を

混乱に陥れます。


自由と秩序を

標榜するアメリカなどは


その最たる例です。


NATOが核武装して

勢力を拡大させながら


ロシアに戦争をするな

という矛盾を要求したり、


イラクで何十万の民間人を

殺害しておきながら


ロシアの戦争は悪だと

言ってみたりします。


馬鹿げていますが、

大衆の知識は

形骸化しているので


それで済ませているのです。





国葬にしても

同じように感じます。


安倍元首相の疑惑や

統一教会の問題を掲げて、


法的な判断よりも


国民感情のほうが

正しいかのような

錯覚を起こすのが


専門家連中の

誘導によるのです。


岸田さんの検討使という

揶揄にしても


メディアお抱えの

専門家の中身のない

批判が元であって、


岸田さんが何を保留して

何を即決しているかは


それ自体が判断と言えます。


なにもかも白黒で

決着がつくと思っている人は


自分の仕事や人間関係を

まったく振り返っていない

にもかかわらず


トップではそれが可能だと


矛盾を述べているに

過ぎないのです。


個人的な意見として

ご参考まで。