【第2121回】



個人の語りのない歴史書のなんと空虚で、偽りの多いことか。

そのことを抜きにして歴史を語るのはナンセンスではないでしょうか。

ああ、もっと父や母の若いころの話を聞いておけばよかった、と、

改元の時代に改めてそう思うのです。



(老いた親から相続したい「お金以外」の需要資産

 目に見えないところに大事なことがある

 https://toyokeizai.net/articles/-/361251?page=4

 2020/07/14 東洋経済)



作家の五木寛之さんの

記事からの引用です。


引用文は記事の中でも

これだけの説明しかないので


非常に理解しにくい

と思いますが


解釈を試みたいと思います。


まず

「個人の語りのない歴史書」

というのは


考古学的な事実だけを

並べたような歴史書を

指しています。


誰の経験もない

そこで起きた事実だけなら


好奇心を満たす

ことはあっても


僕らにとって

なにかを得る体験には

なりにくいのです。


何らかの人間的価値の

相続を目指したものが

歴史の役割であって


例えば


徳川家康が一日に何回

トイレに行ったかなんて

事実を知ったところで


何にもなりはしないのです。





無意識的に受け継いだもの

以外にも意識的に


心の相続をした方が良いと

五木さんは述べています。


それは親などの話を

ただ聞いてもダメで


何度もしつこく聞くことで


本人も忘れていたような

運命的な事件を

知ることができるのです。


そこに人生の妙があり、


自分の人生との対比が

豊かな解釈をもたらします。


毒親の心の相続によって

不幸になってしまった


という場合であっても


どんな人生の体験が

人間を狂わせてしまったのか


よくよく知ることで


自分の苦しみの源泉を

客観的に理解すれば


囚われから解放される

こともあるのです。


つまりそれが人間にとって

本当の意味の歴史の役割

と言えます。





僕らを取り巻く文明が

いかに発達しようと


人間というファジーな

有様から逃れることは

できるものではありません。


歴史がどこまでも

人を支援する由来でも

ありましょう。


ご参考まで。