でも、ぼくがもっと悲しく思うのは、権力者ばかりでなく、僕らのような普通の市民が案外こんな状況を支えてしまっているような気がするからなのです。
   『ガラスの地球を救え』より
爆弾の雨が降り注ぐ中、敵も味方も全滅だと知って、初めて世界から戦争がなくなった、という場面です。
つまり人間が全滅しない限りこの地上で起こる戦争は終わらない。
そんな悲しみと憤りがこの場面には溢れています。
自分たちを滅ぼさなければ戦争という問題解決手段を捨て去ることが出来ない。
本当に人間はそれほど愚かな生き物なのでしょうか。




家庭の仕事は何でもこなせる便利なロボットが普及し、ママは家事から解放されました。
そしていつしか子育てもロボット任せになってしまいます。

子どもたちが両親ではなくロボットに育てられる。
そんな未来は果たしてバラ色の未来でしょうか?
人は人と触れ合うことではじめて心を育むことが出来る。
だとすれば、インターネット授業が主流になって子どもたちは学校へ行く必要がなくなる、という話題がもはや「未来の話」ではなくなりつつある現代は、「とても危険な世界」になりつつあるのかもしれません。



自然というものを“思い出”としてさえ持っていない子どもたちに、他人の痛みや生命の大切さを説くのは、ひどくむずかしいのではないでしょうか。

人は森を切り開き、そこに都市を築いてきました。
それが文明の進歩でした。
神話では空へと高く伸びて行くバベルの塔ですが、その塔が空へではなく、 地平線へと向けて、横へ横へと拡大していったのが、 いまのこの世界です。
バベルの塔が結局は崩れ落ちたのと同じように、いまのこの世界も これ以上の拡張が出来ないところまで来ています。
このまま森を消し去り続けたら、地球という星そのもののバランスが崩れてしまう。
いや、もう崩れはじめている。
この星の断末魔の悲鳴があなたの耳には聞こえていますか?



この世には人知を超えた偉大な力がある。
それがすべての宗教の基本にある考え方です。
その偉大な力が「神」であったり「仏」であったり、最近では「宇宙人」という説もありますね。
その偉大な力を象徴するモチーフには古今東西を問わず「眼」が使われてきました。
さて、では何故「眼」なのでしょう。
神が常に自分の行いを見つめていて、私を罰しようとしている。
そんなふうに思うからでしょうか。

けれど、よく考えてみると、自分の行いを常にみつめているのは、自分自身ですなんですね。
人は常に自分をみつめている。

とすると神さまというのは、どこか別の場所じゃなく、自分の心の中にいるのかもしれませんね。