天正15年(1587)4月、九州征伐を終えた秀吉は、意気揚々と博多(福岡市博多区)に凱旋した。

 そこで、秀吉が目にしたのは、ポルトガル商人の準備した船に乗せられる日本人奴隷の姿だった。


「日本人を数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖を付けて船底に追い入れた。

 地獄の呵責よりもひどい。そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼前に広がっている。

 近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまうことを心配する。」


日本人奴隷がポルトガル商人によって売買される惨劇を目の当たりにした秀吉は、九州征伐直後の天正15年(1587)6月19日に5ヵ条にわたる伴天連追放令を発した。


一つ、なぜかくも熱心に日本の人々をキリシタンにしようとするのか。

一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか。

一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか。

一つ、なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか――


という四カ条で、同時に秀吉はコエリョに対し追放令を突き付けている。

秀吉がなぜこの追放令を出したかだが、その理由の一つに、西欧人たちが胸に秘めた日本侵略の意図を読み取ったからだと言われている。宣教師コエリョが秀吉を博多で出迎えた際、自分が建造させた最新鋭の軍艦に秀吉を乗船させて、自分ならいつでも世界に冠たるスペイン艦隊を動かせると自慢半分、恫喝半分に語ったという。このとき秀吉は彼らの植民地化計画を瞬時に看破したのであった

もう一つ許せないのが、日本の大事な国土が西欧人たちによって蚕食され始めていることだった。

たとえば、キリシタン大名の大村純忠は自分の領地だった長崎と茂木を、同じくキリシタン大名の有馬晴信は浦上の地をすでにイエズス会に寄進していたのだ。

日本国の支配者たる秀吉にとって、いかに信仰のためとはいえ、外国人に日本の領土の一部を勝手に譲渡するなど言語道断の出来事だった。西欧人たちがそれを足掛かりとして領地を広げていくことは火を見るよりも明らかだったからだ。