世見
2022年6月20日(月)
義経
三歳って可愛い頃ですね。
牛若丸が京都の鞍馬寺に預けられたのが三歳でした。
この時は遮那王(しゃなおう)と名乗っていました。
天狗に剣術を習ったとの伝説もありますが、武芸に励んでいたのでしょう。
♪京の五条の橋の上~ と唄われるように、五条の大橋で武蔵坊弁慶と運命の出会いをしました。
弁慶を家来にした義経は、立派な若武者に育っていたのです。
今とは違い、元服後に奥州の平泉まで辿り着くとしたら、どのくらいの日数がかかったのでしょうか。
藤原秀衛(ひでひら)を頼って下向した義経ですが、どのような思いで秀衛を選んだのか興味が湧きます。
この地でも義経は馬術などを磨きました。
私が描く義経像は、何手も先を読んで行動するタイプではなく、思い付いたら即実行する人物だったように思えるのです。
ただ、ツキを持っていたのが義経だった、そのようにも思います。
治承四年(1180年)八月、義経が黄瀬川の頼朝の陣に馳せ参じた時は、心躍る思いがしたことでしょう。
この時、頼朝34歳、義経22歳。
戦というのは、今も昔も情け容赦などありません。
頼朝の命とはいえ、義仲は義経の従足。
その義仲を討ち取ってしまったのですから、義経の心にどのような思いが広がったことか。
都落ちした平家を追う義経の胸の内は‥‥。
「鵯越の逆落とし」、義経が得意とする奇襲戦法で、一の谷の戦いは大勝。
義経を見ていると、屋島の戦いにおける景時のように、恨みを抱く人を作るのが非常に上手いように思う。
そのことが義経の弱点だった気がします。