松原照子世見
2021年10月30日(土)

天海僧正  

南光坊天海僧正といえば、明智光秀が天海僧正だと言う人もおられます。
徳川家康の最晩年に召されてから、その後も二代将軍秀忠、三代将軍家光と縁を深めた人物、それが天海僧正です。
一説によると、天海僧正は百八歳まで生きたと言われています。
天海は、自らが開山した寺、上野の東叡山寛永寺で死の床についたといいます。
寛永寺といえば、家康が没後、徳川家の廟所として造営された場所です。
二代将軍秀忠には長生きの秘訣を、
「粗食 正直 毎日の風呂 勤行 陀羅尼の暗唱 時々のご下風あそばされるべし」と説き、
三代将軍家光には長生きの秘訣を、
「気は長く 務めは固く 色(性欲)はうすく 食細くして 心広かれ」と言ったそうな。
秀忠と家光の性格は、この言葉から察しが付きそうですが、長生きをする秘訣としては、学べそうに思ったりもします。
天海は、自らの死に直面した時も冷静だったといいます。
十月一日深夜、高弟達を枕元に呼び、天台の奥義を教え、筆記させたと言われます。
それを事細かく校閲させて、将軍家光の元へ届けさせたのです。
次の日の昼過ぎ、天海は口を漱ぎ、盥の水で手を洗い、衣服に着替え、法衣を纏いました。息も絶え絶えながらも威儀を正し、そして手には数珠、経文も唱えました。
夕方には、弟子の名を一人一人呼び、合掌。弟子達全員に最後の指導を行ったのです。
天海が息を引き取った時の姿勢は、片足をもう一方の脚の腿の上に組む半跏趺坐だったといいます。
そして、顔には笑みさえ浮かべていたといいます。
この話が真実なら、「あっぱれ天海僧正」と申し上げたくなります。