松原照子世見
2020年3月31日(火)

関ヶ原の戦い  

戦国の世にあって最大の合戦と言えば、未だに“天下分け目の決戦”と言われている関ヶ原の戦いです。
日本人は合戦好きだったのでしょうか。
関ヶ原の合戦は、豊臣秀吉の死後、天下取りを目指す徳川家康に対し、秀吉の遺児秀頼を擁した石田三成が毛利輝元を総大将として挙兵した戦です。
全国の大名を二分して争われた天下分け目の合戦は、家康の事前工作によって西軍側に離反者が続出し、小早川秀秋率いる1万5千の兵が東軍についたことで戦は半日で決着したのです。
徳川家康が率いる東軍と、石田三成の西軍合せて、20万人近い大軍が激突したのですから、凄いとしか言いようがありません。
勝敗を決めたのが小早川秀秋の裏切り。
秀秋はまだ19歳。秀吉の親族でもありました。東軍についた理由は色々と言われてはいます。
20万人もの人々の生死を賭けた戦の場は、怒号が鳴り響き、足音、刃の交わる音が‥‥。
私達が想像出来ないほどのもの凄い音が、あの関ケ原に響き渡っていたことでしょう。
それ故に、家康が秀秋の陣に向けて鉄砲を撃ったとしても、秀秋にはどの音が鉄砲の音なのかわからなかったと思われますので、裏切りの原因はこのことではないと思っています。
松尾山に陣取っていた小早川軍が大谷吉継軍に奇襲をかけたのは、まるで明智光秀が「敵は本能寺にあり」と言ったあのシーンに似ている気もします。
松尾山は関ヶ原を一望のもとに見下ろせる場所で、この場所に総大将の毛利輝元を置いていたら、家康は勝利していなかったかもしれません。輝元に送った三成の密書は家康に奪われて、輝元の元には届かなかったというのも勝負を決めたひとつだったのでしょう。
戦いの勝負はもしかしたら、天が決めたのかもしれません。
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また歴史の説明しての浅い感想文…