世見 6月29日(土)

河合継之助

幕末維新の頃に生まれていたら、女性達はどのような思いの日々だったのでしょう。
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タラレバ娘 松原照子…

こんなことを書くと、河井継之助の血縁筋の人にお叱りを受けるかもしれませんが、お顔が吉本興業の坂田師匠に似ておられる気がして、とても親しめます。

Google検索して情報収集が日課の松原照子。

41歳の若さで亡くなられたのが、凄く残念な思いがいたします。
私は思うのです。彼のような人が今の日本の中心にいたら、国の利益をつくり出してくれていたはずだと‥‥。
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私は思うって…

Google検索しても、そう書かれているでしょう(笑)

継之助という男は、思い切りが見事です。
越後長岡藩邸の主なる品々を売って大量の銃を買ったり、又、江戸で買った米を相場が高い函館で売ったり、江戸から持ち帰った二万両分の銅銭を、銭相場が高い新潟で売却して大きな利益を上げたりと、かなりの商売人です。
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Google検索して出てくる情報を書いているだけ。

若い頃、彼のような男性と出会っていたら、胸キュ~ンだったに違いがありません。
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お金大好き松原照子氏だからね…。
スナックのママをしていた松原照子にそんな男性が振り向くとは思いませんが…、気がする~

領民の安寧を願い、武装中立を主張した男、河井継之助。
ガトリング砲2門をスイス人の貿易商から購入するあたり、継之助は肝が座っていると思ってしまいます。当時、日本にはこのガトリング砲は3門しかありませんでしたからね。
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凄い情報を書いているつもるなのでしょうか…
Google検索したら出てくら情報ばかり…(´Д`)

毎分200発の弾丸が連射できる優れもののガトリング砲を、継之助はどのような思いで購入したのでしょう。
自らこのガトリング砲を連射して防戦したのですが、左肩を負傷し、その後城下新町での戦闘で左足の膝下を負傷、このことが原因で新政府軍は敗れたのです。
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歴史を書き並べているだけ(笑)

彼は自分の最期を知っていたのです。
遺体は火葬にすべしと命じ、次の日の午後、寝入ると暫くしてこの世を去りました。今でも建福寺にお墓があるのでしょうか。
北越戦争がなかったならば、彼はどのような人生を送ったのでしょうね。
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最後も「タラレバ

もしも~、あの時あーしたら~、こうしたら~、変わっていたかもしれない~、

以上、浅い日本の歴史感想文でした…
予知能力も不思議な世界の方々も必要としない内容です。