【松原照子】世見 2018年1月27日(土)

石田三成  

石田三成という人がいました。
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知らない人はいないでしょう・・(((^^;)

彼は優しい人だったと、私は思うのです。
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(笑)
思う~、感じる~、気がする~

秀吉は命じました。

「キリシタン弾圧」を三成にです。

三成は、少しでも多くの逮捕者を出さないために尽力したのです。

秀吉には仕官しました。

秀吉の小姓になった三成。

朝鮮出兵時に起きた出来事が、後の三成の運命を決めることになるのです。

黒田長政、加藤清正との対立が、この朝鮮出兵で決定したのでした。

人の生きざまから学びとることは大きい。

1598年の8月、主君秀吉は病死。

2年後の1600年、三成は挙兵して、徳川時代を作るターニングポイントを家康に与えました。

家康と三成、両軍の戦は、私達には想像が出来ないことでしょう。

今も京都の六条河原辺りを歩くと、微笑を絶やすことなく平和に暮らす現代人を見ている気がします。
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気がする~、感じる~、思う~、

「人は死んだらどこへ行くのだろうか」

このようなことを三成が想ったかどうかはわかりませんが、死を前にして三成は、領地である故郷へ思いを馳せました。

彼の故郷は、近江国の入江の筑摩江でした。

芦が繁っている間に篝火が見えるものの、やがてこの篝火も消えるだろう、我身のように。きっとこんな想いがして、

「筑摩江や 芦間に灯る篝火と 共に消え行く 我身なり」

という辞世の句を残した気がします。
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気がする~、感じる~、思う~

処刑地の六条河原で私達を優しく見守ってくれている三成。

京都へ行かれたら、六条河原で三成にご挨拶をしてみては如何でしょうか。
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以上、いつもの歴史を書き並べただけの世見でした・・┐('~`;)┌