松原照子さん【世見】ネット、百科辞典を見て書いてるだけ!?


(世見)
↓↓↓↓


今日も歴史は動いています 


歴史の真実を知りたくなります。
勿論、私が不思議な世界の方々に教えていただいた歴史物語が真実だとは申し上げられないことでしょうが、教えられると真実だと思ってしまう私が存在しています。
『月刊SYO』ではこうした歴史物語を連載していますが、私自身書きながらとても楽しみな内容です。

↑↑↑↑
ネットや百科辞典を見て読んだ内容を書いて会員からお金を搾取して・・

洗脳された会員の方々が気の毒です(泣)


(世見続き)
↓↓↓↓

「忠臣蔵」と云えば四十七士。
その一人に寺坂信行と云う人物がいました。
彼は身分が低かったからではなく、密使なる役があったから切腹を逃れたのだ、と不思議な世界の方に教わりました。本当かどうかわかりません。
徳川幕府が日本を牛耳っていた時代。
朝鮮王朝とはどのような繋がりがあったのでしょう。
韓流ドラマ好きな私は、何故かこんなことを思ってしまいます。
“対馬藩と朝鮮王朝の関係”は実に面白いと思ってしまいます。
いつの日か対馬藩物語を教えてもらい、書き残したいとも思います。
朝鮮王朝時代の行政区分は八道あったといわれます。
朝鮮王朝の建国初代王は イソンゲ。
中国大陸では“元”を倒し“明”が誕生したのが1368年。日本では猿楽能の能作者といわれる世阿弥が5才の頃の出来事です。
北山文化が花開いた時期とも思います。
室町幕府 全盛期。
中国大陸では大きく時代が変わろうとしていました。
お隣の国の北朝鮮と韓国の歴史には日本の歴史もあります。
人が何故いがみ合うのか? 本当は誰もが仲良く暮らしたいはずです。
今日も現在版の歴史が動いています。

↑↑↑↑
当たり前の事です、はい。


寺坂信行についてです。
↓↓↓↓

討ち入り前後の寺坂 彼について確実に言えることは次の諸点だけ。討ち入りを果たした浪士たちは泉岳寺へ向かう。途中で吉田忠左衛門・富森助右衛門の二人は幕府大目付仙石伯耆守邸へ「口上書」提出のため別れる。泉岳寺に到着した浪士たちを検分した寺社奉行は一人足りないことを大石に伝え、初めて寺坂が居ないことに気付く。ここまでが討ち入り当日の寺坂についてほぼ確実に言えることである。

 寺坂吉右衛門の謎 当然ではあるが、寺坂について公文書の記録は無い。内蔵助は細川藩に預けられた時、最大の支援者だった赤穂藩藩医寺井玄渓に何通も手紙を出している、その中の一通に「寺坂は吉良邸まで来たが中に入らず逃亡した」とある。同じことを原惣右衛門が細川藩の堀内伝右衛門に言っている。吉田は娘婿に「寺坂逃亡」と「寺坂にお前の世話を頼んだ」と異なる書簡を出している。

 寺坂の言い分 寺坂は討ち入りまでの記録「寺坂信行自記」と討ち入り以後の記録「寺坂信行筆記」を残している。「忠臣蔵」等の寺坂像は「筆記」に書かれているものである。彼によれば、討ち入りの間、吉田の傍に居て、引き揚げる時、門前で「生き残ってわれらの証人になれ」と言われ已む得ず別れた。一方では泉岳寺の門前で大石より「本日のことを広島の浅野大学に報告するように」と言われ広島に向かった。とある、本人が自分のことを書いた文書は全面的に信じられないが事実が無くもない、冷静な判断が求められる。一つだけ「寺坂は広島へ行ってない」これは確実に言える。 


本日の唯一の不思議な世界の方の言葉・・

「密使なる役があったから切腹を逃れたのだ」

そんな事、歴史文書を読めば書いてある事ですよ。

その密使とは何かを何故ハッキリ書かないのか?

松原照子さんもネットや百科辞典を見て書いてるから書けないのでしょう。

本日の世見も誰でも調べれるレベルなんです・・

不思議な世界の方と話しが出来るなら

密使」の内容を聞いて書いてください。

それをズバッと書いて歴史の謎でも解ければ信用度も上がるかも・・ですよ?

今の所の世見、講演会などでの松原照子の信用度は・・


0%です・・・・( ̄▽ ̄;)