松原照子さんのいつか書かれる可能性の高い1500年頃の中南米の有名な事ばかりですが・・ネットで抜粋してみました。

この辺りのネットで調べれるレベルの事を書かれるのではないでしょうか・・?(笑)

「見えた、聞こえた、不思議な世界の方に教わった」




☆インカ帝国(インカていこく、スペイン語:Imperio Inca、ケチュア語:タワンティン・スウユ(Tawantin Suyu, Tahuantinsuyu))は、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が作った国。文字を持たない社会そして文明であった。

首都はクスコ。世界遺産である15世紀のインカ帝国の遺跡「マチュ・ピチュ」から、さらに千メートル程高い3,400mの標高にクスコがある。1983年、クスコの市街地は世界遺産となった。




☆通称『12角の石』
よく見ると、石材と石材の組み合わせ部分が平らでなく、丁寧に面取りされているのがわかりますか?

フラットな加工をするところは、そのようにしているので、意図的なデザインとして面取りが施されているようです。
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☆ 石壁が300メートル以上にわたって続くサクサイワマン。

組み上げられた石で最小のものは約40キロ、最大のものはなんと100トンを超える。ここでもやはり、どの石組みも隙間なく精巧に組み上げられている。
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☆モライ

標高3650メートル、31.7ヘクタールの敷地にすり鉢状の段々畑が四つあるこの遺跡、上から望むとまるで競技場跡のようにも見える。

もっとも大きな遺跡で最下層にある円の直径は32メートル。各石段の高さは2メートル、次の段までの幅は広いもので5メートルある。
最上層と最下層の標高差は約150メートル、気温差は10度前後となっている。この温度差を生かし、インカ人は栽培可能な農作物を確認していたという

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下まで降りる階段も当時のまま残ってます。中心ではパワーをもらえるそうで寝て祈ってる人もいます。

アンデス地方では段々畑が非常に多いのですが、それは気温差を利用して様々な農作物を作れるからです。この同心円状の畑も一番上と最下段とでは、10度近い温度差があるそうです。周辺にはこのような段々畑がいくつかあります。



☆約2mの人型土偶(石棺)を断崖絶壁に祀り『ペルーのモアイ』と呼ばれるカラヒヤ遺跡
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☆日本大使公邸人質事件の救出作戦に付けられたのもこの地下通路の遺跡の名前です。
「チャビン・デ・ワンタル」
命名の元になった地下通路にはランソンと呼ばれる主神体をはじめ、いろいろな神々の像や石碑がおかれています。ペルーの遺跡の中でもこれほど地下通路のみごとな遺跡は他にありません。
チャビン・デ・ワンタルはアンデス山脈の山の中にあります。

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☆コリカンチャ
コリカンチャ=太陽の神殿。サント・ドミンゴ教会。

かなり重要な神殿であったらしく、ひときわ精緻な石組みが行われています。さらに、黄金の財宝で満たされていたそうですが侵略者達が持ち去り、神殿は破壊されて、教会の土台にされています。

チリ、ペルーは大きな震災が度重なり、サント・ドミンゴ教会は幾度も壊れました。
しかし、インカの複雑な石組みは耐震も考慮されているのか、震度M8の地震を数回に渡って受けても、土台の部分は僅かに隙間ができている程度。驚くほど頑丈なものです。
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☆ ペルーやその近辺に紀元前から生まれ、素晴らしい叡智と技術を生み出した数々の文化を、最終的に統合したのがインカ文明。
クスコ近くに住んでいた高地民族が、次々と周りの文化を吸収し統合していったのがインカ文明の始まり。

おそらく1400年以前に生まれ、1450年に太陽神を崇敬する王族により統合が進められ、1450年頃にインカ帝国として成立した模様です。
1500年頃には、コロンビアからアルゼンチン・チリにまで及ぶ巨大な帝国を作り上げました。
しかし、これだけ素晴らしい技術と英知を持ついくつもの文明達が、歴史のないインカ帝国に簡単に滅ぼされるわけがありませんので、おそらく文明間の間で一つに統合して、より高度な文明を作ろうという動きがあったのかもしれません。