きつい言葉で言えば、私たちの宗教は「葬式仏教」から

最近では葬儀を「遺体処理教」「遺体処理葬」とまで言わ

れる。そのように言う人がそう思っているだけだから仕

方ないとは思うが,死んだ人間を思う気持ちから出てい

る言葉ではないことは確かである。

 

49年間住職として約○百人の方の法名をいただき,葬儀

式を行ってきた。最近は「葬儀が乾いている」「涙がな

い」「機械的である」「送る人の参列者が減った」「死者

の生前を振り返ることが減った」「僧侶が機械的に処理」

と言う言葉を聞く。

 

「優先されるのは葬儀費用の多寡である」「葬儀費用」

を提示する寺もある。どうも葬儀の主役は「経費」であ

る。これは寂しい。もう最後だから綺麗な棺に納棺して

欲しいから,どうせ灰になるから何でもいい,まである。

これは全てが喪主に任せられているからである。

 

喪主の考え方を聞けば葬儀の形は決まる。住職は最近

「死者に尊厳と人権」をテーマに葬儀を行っている。その

ためにできるだけ「法名の解釈」から「故人の人生を語

る」ことにしている。ほとんどの参列者は深い謝意を表

す。

 

「教えのない葬儀は葬儀ではない」「死者の尊厳と人権」

を思わない人は最近多い。肉親間で悲しい事件を多くひ

き起こしている。「長く生きている人を尊敬しないのか」

「人の人生から学ばないのか」それがわからない。同時

に他者を尊敬することすら忘れている。

 

個人の在り方や学歴や経済的、いや、財力と言った方

がいい。そのことしか重視されない。また、考えない社

会はいずれ大きな代償を払うことになる。

 

生きている者と死んだ者はつながっている。それが相続

である。その相続はすべての人間を幸せにする。もう気

がつかないと、どんどん社会は「個人のための社会」であ

って「万人のための万人の社会にならない」

仏法はその事を警告している。  南無阿弥陀仏。

 

 

書院から本堂へと続く、渡り廊下から見た中庭の風景。

窓を開ければ、クチナシの花の香りが漂います。