最近,仏壇じまい(他宗派では閉眼供養)を寺に依頼され

る方がありました。理由は父母が他界し,仏壇を見る人が

いない。自分たちの家には仏間がない。

 

亡くなった両親を仏壇に置き,手を合わせて念仏を言う場

所がない。昔の家とは違う。ハウスメーカーは注文すれば

仏間を創るがほとんど基本プランには仏間はない。どこに

でも仏壇はおけるのだが。

 

 

確か最近までは家は「田の字型」の部屋割り,仏間の位置

は決まっていた。どこが家の中心で,どこで手を合わせれ

ばよいかがわかっていた。日々の喜びや悲しみをその家の

父や母,そして祖父母に報告する場があった。手を合わせ

て家族全部で念仏や正信偈が唱和できた。

 

家族がひとつの方向を向いてともに何かをする時間が持て

た。以前は田植えや畑の作業があった。家族の心がひとつ

になった。今はもうない。皆がそれぞれに生きている。

 

 

祖父母が死んだら家の中のどこにいるかがよくわかった。

仏壇があったからである。祖父母に手を合わすことで,人

が死ぬことがよくわかった。最近は死は見えにくくなって

いる。

 

今は家の中心がどこで,誰の期待や遺志を受け継いで生き

方を決めていけばいいのかを考える場がなくなった。

将来家を担う家の若い人たちは,自分の部屋と勉強部屋を

与えられ,仏間と仏壇とは全く疎遠である。これでは子ど

もたちは道に迷う。

 

仏壇は家の中心を表し,家族の気持ちをどこに集結させれ

ばよいかがわかった。つまり家の繁栄にとって絶対的に必

要なものであった。

 

それをしまっていくことは仏縁が疎遠になるだけではなく

生き方や家族全部の安穏な暮らしを壊しかねない。仏壇の

あることの意味を考えよう。南無阿弥陀仏。