浜縁回廊正面北端の虹梁に喚鐘が本堂改修の最終工程として

設置されました。

喚鐘を設置されますと、本堂の外観が引き締まります。

 

喚鐘を設置する前、寺族が長年の汚れを洗い流しました。

洗剤液をつけて、たわしでこすり洗いをしました。バケツの水が

あっという間に200年近く蓄積された埃で茶色くなりました。

 

洗う前(写真左)と、洗った後(写真右)。

くすみが取れて、美しい緑青色がよみがえりました。

 

喚鐘の三か所の面には、それぞれ文字が彫られています。

「文政十二年 己八月 廣瀨与左エ門 藤原政次 作」

文政12年は、西暦1829年です。今から191年前に作られた

ものだということがわかります。また、職人の名前も共に刻まれ

ています。

 

【文政12年に起こった出来事】

1829年(文政12)の江戸の大火。佐久間町火事、己丑火事とも

いう。3月21日昼前、神田佐久間町二丁目の材木商尾張屋徳右

衛門の材木小屋より出火。西北の強風にあおられ、日本橋・京橋

芝一帯を焼き、焼失面積は幅20町(約2.2㎞)、長さ1里(約4㎞)

に及んで、鎮火した。

大名屋敷73、旗本屋敷130、町屋の類焼約3万軒、船や橋も多

数焼失し、2800余名が焼死した。

(世界大百科事典 第2版 参照)

 

「願主 現住祐海 惣門徒中」

当時の住職である祐海の名前が彫られています。惣門徒中とは

全門徒という意味で、喚鐘がご門徒からの寄付だということを表

しています。

 

【祐海について】

当山の十世、祐海の時世の文政五壬午年(1822年)、松平下

総守忠堯(タダタカ)の若殿と商人が大溜に舟遊びに御成り。食

事と宿泊。自家醸造の石火矢酒と卵、鯉、いさだ、ゴボウ、里芋

などを振舞ったとされる。

(眞養寺 沿革より)

 

「勢刕員弁郡 楚原村 真養寺 常付物」

住所と寺院名が刻まれ、常付物ということから、喚鐘が本堂に

常に取り付けられるべきものだということが記されています。

 

200年近い年月を本堂と参詣者を見守りと幕末の混乱期と明治

維新,伊勢暴動 終戦前後の三大地震(東南海地震・三河地震

・南海地震)と室戸台風・伊勢湾台風・第二室戸台風に耐え,寺

族の生活を見てきた喚鐘に,自然と手を合わす気持ちになりま

す。これからまた何百年も本堂と参詣者と寺族を見つめてくれま

す。南無阿弥陀仏。