怒りには続きがないといけないと思う。
人は全て優しい。
しかし、無意識に失礼だ。
子供。
子供は生まれてからしばらく母親が絶対的に自分を裏切らないと感じる。
でも、母親は子供が自立しなくてはならないので、愛を持って突き放さなくてはならない。
子供は信じられないほどに打ちのめされ、傷つく。
人生はここから始まる。
生きることとは、裏切られるのを受諾する旅だ。
人は少なくとも寂しい。
分かり合えないことをどこかで知っている。
分かり合えることをどこかで諦め、妥協する。
でも、そこに相手からの悪意がないこともわかっている。
むしろ愛だったりすることもどこかでわかっている。
だから、絶望しない。
だけど、寂しい。
僕は、人に優しさを期待するのは、傲慢だと思う。
だって、人も動物だ。
これは、「所詮動物」と嘆いているわけでなく、
むしろ希望のある話だと思って言っている。
人の感情に自由は殆どない。
子供の頃母親に裏切られて以来、人は自分を「守ろう」としているのだ。
そして、その防衛本能は、人が選べる感情ではない。
もう一人の動物的な自分が意思を制御しているのだ。
あなたが怒るとき、あなたは怒りたいわけではない。
怒りは、どこからか、春の蝶のようにひらひらと湧いてきた感情だ。
お腹が空くとき、好きな人に嫉妬するとき、無性にモーツァルトが聴きたいとき、
残念ながら、あなたはそれらの感情を選択していない。
人は、モーツァルトが聴きたいときに、好きなモーツァルトの演奏がすぐに聴ける状態を「自由」と呼ぶ。
…間違っている。
本当に自由なら、「モーツァルトが聴きたいかどうか」から選べなくてはならない。
強制的にモーツァルトを選ばされている。
なんなら、音楽が聴きたいという思いたちを選ばされている。
ふとしたときに舞い降りてくる感情は、人が意思を持って掴んだものではない。
それは、動物的なもう一人の自分が、理性的で理論的な意思をコントロールしようとしている。
だから、
部下を叱るとき、恋人に憤慨するとき、夫婦が喧嘩するとき、
友に反感を覚えるとき、他人を軽蔑するとき、
そこには続きがなくてはならない。
ただの怒りで終わってはいけない。
本能に負けてばかりではいけない。
怒るまではあなたの意思ではない。
そこから何を伝え、何を叶え、何を生産できるかが、
人間の意思だ。
冷たい態度をとられた。
不条理な目にあった。
気持ちが通いあわずすれ違った。
全て大丈夫。
そこに人が墜ちていくほどの谷はない。
谷があったのであれば、それは墜ちた人自身が掘った穴だ。
憎んだり、孤独になったりする必要はない。
相手もただ守りたいだけ。
自分も自分を守りたいように。
よく生きる、ということは、
どれだけ意思が動物に勝てるか。
自分が持っていることの怒りは、本物か?
今一度問いかけたい。
それは、守りたい本能が自分の意思を制御し、操っているのではないかと。
2017年
たくさんの意思ある優しさを見られることを、楽しみにしています。
怒りには続きがないといけないと思う。
怒りは、優しさが答えになってなければいけないと、僕は思う。