その日僕は朝から心を躍らせていた。
金髪のポップヴァイオリニストNAOTOさんと、幼馴染で東京都交響楽団のヴァイオリニスト山本翔平、そして連弾の相方である高井羅人と僕が愛してやまない西武ライオンズの試合に行くからだ。
朝から仕事を手早く片付け、かなりの時間的余裕を持って、待ち合わせ場所である西武池袋駅へと向かう。
僕は電車に乗るのがうまくない。
路線図の読み方がよくわからない。
電車の種類、急行だとか快速だとか、そういうのの違いがわからない。
色々と電車に乗るのに解ってないことが多い。
だから、人から入念に教えてもらった。
友人に一通り教えてもらったら、また違う友人にセカンドオピニオン的な教えを請うた。
スマホで何度も確かめ、約束の時間より1時間も余裕を持って池袋駅の指定の場所へと着いた。
興奮で、背中に汗をかいた。
ワクワク、ドキドキした心を抑えられそうもなかったので、大音量で音楽を聴くことにした。
テクノ系ハウスビートで僕の脳内はクレイジー。
池袋を忙しそうに行き交う人々を横目に、一人ダンスクラブ状態。
「足りない」
と思った。
僕の興奮はまだ治らない。
ピアニストの興奮はこんなものではない。
まだまだこれからだ。
カフェなどでじっとしている自信がなかったので、僕は限界まで音量を大きくするという行動に出た。
スマホの音量を最大にすると、それなりに快感だった。
その勢いで、まだまだ大きくしたかった。
あと手段はひとつ。
イヤホンをできるだけ耳の奥に突っ込む。
僕は思い切ってイヤホンを耳の奥に突っ込んだ。
そこには、新しい世界が待っていた。
モダンなテクノサウンドが、人工的なハウスビートが、
「僕の中にいた」。
隣とか近くとかではない。
僕の中に入ってきたのだ。
なかなかの快感だった。
30分ほどで、僕の心はだいぶ落ち着いてきた。
そして、そろそろ音を切って少し歩きでもしようか、と思ったので、音楽を停めて、イヤホンを抜いた。
イヤホンを抜いた。
しかし、右のイヤホンだけ、いつもと様子が異なる。
あの、イヤホンの耳の中に当てる「きくらげのような部分」が無いのだ。
落ちたかな?
地面を探す。
しかし、すぐに僕はきくらげが落ちたわけではないことに気づいた。
「右耳が聞こえない」
明らかに、僕の右耳にミュートがかかっていた。
あの、きくらげが、僕の右耳に残ってしまったのだ。
必死でとった。
爪をとんがらせて引っかかるようにして必死にとった。
しかし、ピアニストはいつも爪を短くケアしている。
ダメだった。
それどころか、爪に届くまでに指の肉に押されて、もとより奥に入っていってしまった。
取れるまでの数週間、すべてのコンサートをキャンセルしなくてはならないという悪夢が頭をよぎる。
手術台で耳の近くに穴を開けて取り除く作業が見える。
一瞬だが、人はパニックになったら意味のない最悪な事態を想定してしまうものだ。
時計を見ると、あっという間に時間が経っていて、待ち合わせまであと10分しかない。
僕の目には、信号を渡ったところに大きく掲げてある「マツモトキヨシ」の看板が写っていた。
信号が青になると、メダルを獲った時の為末大くらい走った。
そして、店の入り口の棚を整理している店員さんに言った。
「ピンセットどこかにありますかぁぁあああああ!」
店員さんが僕のあまりの大きな声に驚き後ずさった。
店員「¢☆⌘$⊿?」
右耳が遠くて何を言ってるのかさっぱり分からなかった。
左耳を店員に近づけてもう一度お願いしますと哀願した。
店員「どんな目的で使用しますか?」
僕は。自分の頭に血がのぼっていくのが分かった。
こいつ、俺を不審者だと思ってやがるのか。
確かに不審な動きをしているが、こっちにも事情というものがあるんだ!
僕 「どんな目的でもいいじゃないですか!」
店員「サイズはどんなものでもいいのですね?長いのと短いのとあるので…」
…心から自分を恥じた。
なんと丁寧な店員だ。
僕は感動した。
僕がこんなことになっているのを知っているのかもしれない。
なんとなくだけど、すごく勘がいいのかもしれない。
マツモトキヨシは、一号店が小さな路面店だったと昔どこかで読んだ。
マツモトキヨシさん、あなたのサービス精神は末端の人間にまで通じています。
僕「もちろん、一番細くて長いやつをください」
「いくらでも払います」と最後に心の中でそっと付け加えた。
約束の時間に2分過ぎている。
僕は急いで箱から大きなピンセットを出し、走ってきた横断歩道をゆっくり歩きながら、右耳に恐る恐るピンセットを挿し込んだ。
ピンセットはゆっくりきくらげに当たった。
ゴリラくらいの握力でピンセットを握った。
握った感触で、なんとなくきくらげを掴んでる気がした。
ゆっくりピンセットを出すと、耳の穴の出口で少しつかえたが、きくらげが僕から出て行った。
助かった。
助かったのだ。
僕はきくらげを出したのだ。
自分で。
自分の力で。
それら全ての工程が終了したくらいで、ちょうど横断歩道を渡りきり、待ち合わせ場所に到着した。
NAOTOさんと幼馴染二人。
少し遅れたがほぼ時間通りに僕。
右手には長いピンセット。
ピンセットの先にはきくらげ。
その日のライオンズは絶好調だった。
NAOTOさんがファンである日本ハムを劇的な点数で上回った。
点数が追加されて、僕がはしゃいで踊るたびに、僕はNAOTOさんにピンセットで突かれた。
痛かった。
でも、心地よかった。
ありがとう、ピンセット。
ありがとう、マツモトキヨシとその店員さん。
僕の右耳のミュートは今も、はずれています。