今日はこんなお話を見つけました。
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昭和36年1月のことであった。
「双子の妹たちを高校へ進学させたいので、共働きを承知で結婚してもらえないだろうか」出来ることならもっとロマンチックにプロポーズしたかったに違いない。しかし夫は当時厳しい状態にあった。
中学2年生で父親と死別、あとに残された病弱な母親と、弟妹4人の生活を全て夫が背負わなければならなかった。妹たちをせめて高校だけは卒業させたいという兄としての思いが、ひしひしと私に伝わり快く二つ返事で受けた。
そして4月、高校に合格した義妹たちと同居、新婚生活がスタートした。
私はパルプ工場の女子工員として日勤夜勤の交代制の中で働いていたが3年という月日はあっという間に過ぎ、二人は無事に卒業した。ひとりは保育士を目指して東京へ、もうひとりは福祉札幌へと旅立った。
それから間もなく、私たちに子供が誕生、育児と家事に専念するかたわら夫の良きパートナーとして幸せな歳月が流れていった。しかし平成2年、私は脊髄を損傷する大怪我を負い医師から寝たきりの生活を宣告された。突然障害者の受け皿となる家族の苦悩を思うと申しわけなく、夫の前で号泣した。
「なんにも心配いらないよ。おれが一番困っていたとき、おまえは一生懸命働いて二人も高校へ通わせてくれた。今度はおれがおまえを助ける番だよ」
そんな遠い昔のことを夫はまだ覚えていてくれたのか……ほのかな温もりが体中を駆けめぐった。夫だけではない。義妹たちまでも介護用のお風呂を一式取り付けさせて欲しいと申し出たのである。
今でもこうして子供のころからの夢であった保育士を続けられるのも、お義姉さんの援助があったからこそと、あくまで私を立ててくれるのだった。わずか3年間の協力がこのような形でかえってこようとは、嬉し涙がとまらなかった。
実は、夫からプロポーズを受けたとき、ふと「明日はわが身」という言葉が私の脳裏をよぎった。それが30年後に現実となり、今私は家族の介護の手を必要としている。 人間生きている限りひとりでは生きられないのだ。
「明日はわが身」の大切さを改めて思った。 あれほど重症だった私でしたが、執刀医も驚くほどの回復ぶりを見せはじめ、寝たきりの生活もまぬがれた。その後歩行訓練に励み、6ヶ月の入院も経て退院した。
しかし、その喜びも、著しく残った後遺症で半減した。強烈なしびれと冷たさが下肢を襲うと足が固まってしまうのだ。一歩も歩けない。
そんなとき夫は私を抱えるようにして布団に寝かせ、筋肉のすっかり落ちたパサパサの貧相な下肢を温めようと懸命にマッサージを続ける。けれども温かみはそう簡単には戻らない。すると夫は私の足を自分の口元に近づけ、ピンク色に染まるまでハアハアと温かい息を何度も吹きかけながら、足をさすってくれた。
夫婦の絆が強くなければ出来る行為ではない。 感謝と夫へのあつい思いがあふれた。
四季を問わず常に足の保温を欠かせない私のために、高齢でありながらも夫の母はセッセセッセと毛糸の靴下を編み届けてくれる。また二人の義妹たちからは滑りどめの付いた安全底の靴を頂いた。
しびれとマヒ、そんなハンディを負う私の足を思いやり、素材、保温性、デザインと三拍子揃った靴を探すため、半日も時間を費やしたのだった。
夫と二人きりになったとき、感動のあまり「兄嫁にここまでしてくれる小姑っていないよね」とポロポロと涙する私に、「あの3年がいい関係だったから、今もいい関係にあるんだよ」。 夫のこの言葉を聞き、夫の家族の一員になれたことを本当に幸せに思った。
今でもこうしてわが家は私を中心に回っている。
11年前、寝たきりの宣告を受けたときは全てが灰色にしか見えなかったが、今は何の迷いもなくバラ色のコースを歩いている。
家族の愛に感謝しながら。
「心にしみるいい話」北海道新聞社 立花 則子(主婦・61歳・苫小牧市)