「決意の日」

僕は14歳の終わりの頃、一時保護所と言う施設に入りました。
3ヶ月後すぐに、学園と呼ばれる児童施設での生活が始まりました。

強迫性障害の母と共に戦って来た生活に終わりが来たんです。

ずっと外にも出ていないし
お風呂にも入っていない。
当然学校にも行けない生活をしていた僕らに、市役所から強制的に家に入って調査をすると言う内容の手紙が来たんです。

のちのち運命を大きく変える事になるのですが、、、


その手紙が来た時は本当に
恐怖を感じました。

ご飯も自分で食べられない位
病状が悪化していたのに
もし他人がズカズカ自宅に入ってくる様な事になれば、きっと
母の気がもっとおかしくなってしまうであろうと考えたのです。

だから、僕たちは市役所の人達がくる前に、自分達で行こうと
決めたのです。

そして子供家庭センターと言う所に直接行って、僕と弟が施設に入るので、母と兄には何もしないで下さいと言う事を言いました。
そうして僕らは施設に入ることになりました。


僕達が家庭センターの車で一時保護所に出発する時、後ろからずっと見送る母と兄の姿を見て僕と弟は大泣きしていたのを
覚えています。

忘れもしない12年前。
2000年3月3日、ひな祭りの日。

ちょうど12年前の今日です。

続く、、、、

追記、、「ギターとの出会い」

僕が一時保護所に居た3ヶ月。
自由な時間が一日に少しだけあり、僕は弟がみんなと遊んでいる間にギターを見つけました。

触った事も無かったギターを
手に取ると、そこに居た先生が、「自由時間になればまた俺に言ってくれたら、倉庫のカギを開けてあげるからギターを弾きにおいで」と言ってくれました。

それからそれが楽しみで、
自由時間になると、
ボロボロのクラシックギターを
持って必死に練習しました。


ちなみにその頃、
僕と弟の髪の毛は腰まで伸び、
周りから見れば本当に気持ちの悪い奴だと思われていたと思います。

でもギターを弾いていると不思議とみんなが周りに集まって来て凄く仲良くなったの覚えています。

少し弟から目が離れてしまっていたのかも知れませんね。可哀想な事をしました、、、


僕がギターに出会った事、
それは凄く複雑な気持ちを抱えて、必死に生きていた中での
希望の光。

だから僕にとって音楽は、
ただの趣味だとは思えません。

たとえお金にならなくても
音楽を愛し、僕の仲間を愛し、
共に生きて行きたいのです。

理屈でも、綺麗事でもなく、
本能です。
「両親の離婚後」

前回のday5では離婚までをお話しましたね。
それから、、

僕達は、兄弟三人と母の4人で暮らす事になりました。

そこから、本当の闘いが始まったのです。


両親が離婚して
父が出て行く時には、
もう母の強迫性障害はかなりヒドくなっていました。

僕達はまだ働ける年齢ではなかったので、父が家賃を払ってくれていて生活費は母の母子手当だけでした。

ガス、水道、電気、食費、
正直全然足りませんでした。

強迫性障害の症状は人それぞれで、(これを読んで下さっている皆さんには是非調べて頂きたいと思うのですが)
僕の母の場合、強迫行為が始まると何をしていても本当に時間がかかってしまうのです。

トイレは12時間、食事に至っては日をまたぐ事が当り前でした。

強迫行為が始まると、僕達も動いてはイケナイので、食事もトイレも全て待っていました。

母がご飯を食べれずに居るのに
目の前でご飯を食べる事が出来なかったんです。

強迫行為は昼夜問わずなので、
光熱費が凄い額になっていました。

そんな状態でお金がある訳もなく、僕達は仕方なく食べ物や生活用品、あらゆるモノを盗みました。

パン屋さんの廃棄や、パンの耳、何でも食べました。

もちろんこのままでは
ダメだと思ってたし
病院や市役所にも相談しました。

精神科医を家に呼んだ事もあります。

でも僕の母は精神科医ですら信用出来なかったのです。

僕達は、母を想う気持ちがあれば絶対に治ると思って居たし、
ずっとそばに居てあげるのが当然だと思っていました。

なので闘病生活を続けていたのです。

僕達が治さなければ、誰が治すのか?とまで考えていました。

僕達は信じ続けたまま
気付けば2年と言う歳月が過ぎていました。

もう家族は疲れ果て、
どうしようもない状態でした。

そんな時、運命を変える大きな出来事があったのです。


続く、、、