「みんなの為になるのは善と言うが、みんなに含まれない人たちにとってはそれは善ではない」と言うコメントがありました。これは「ヒトラーがドイツ人みんなの為にユダヤ人を虐殺したのは善と言えるのか」と言う問いと同じと言えます。

 

善とは本来、種族保存の為にあるのです。これは群れ仲間の保存であり他の群れは関係ないのです。他の群れは他の群れで「種族保存、みんなの為」をやればいいのです。このことについては以前の投稿に詳しく書いてあります。

 

繰り返しますが本来、善と言う感情は群れ仲間の保存の為にあるのです。私たちは善なる行為を見れば何故か「善いな~、優しい人だな~、心が温かくなるな~」と感じます。これは善なる行為を見れば本能的に脳内に快のホルモンが出て快くなるようになっているのです。善とは本来、本能的なものであり、感情なのです。これは人間だけではなく動物でも仲間が困っていれば本能的に助けようとするのです。このように善とは本来、仲間の為にあるのです。その群れが種族存続するためには善が必要だったのです。ですから「みんなの為」のみんなとは仲間でなければならないのです。敵に「みんなの為」をやれば自分たちが滅んでしまうのです。

 

そして仲間の群れの最大は軍隊で守っている国民と言う事になります。ですから私たちはまず国民みんなの為になることをやればいいのです。また「みんなの為」とは「みんなの安心・幸せ」と言う事ですからその国民の幸せの為に善なる事、正しい事をやればいいのです。正しい事をやっていればその国民は幸せになれるのです。そして他の国の人々も自分の国民の幸せの為に正しい事をやればその国民も幸せになれるのです。そのように世界各国で自国民の安心・幸せの為の政治をやれば、それが世界の平和に繋がるのです。

 

絶対善と言うからには全世界に共通するものでなければならない、などと考えるから他国に干渉しようとして争いが起きるのです。例えば「キリストの教えこそ絶対に正しいのだ、だから世界はすべてキリスト教を信仰すべきだ」なんて考えていれば宗教戦争が起きるのです。

 

勿論、世界的な問題もありますがそれでは世界は「世界みんなの為」と考えることが出来るでしょうか。現状では自国の利益を優先し、なかなか「世界みんなの為」になるような答えを承認しようとしませんから世界的問題はうまくいかないのです。ですからまずは自国民が幸せになるような政治をやればいいのです。そして世界に絶対善が認知されるようになって初めて世界の問題も「世界のみんなの為」と各国が考えられるようになるのです。そしてその時は世界の人々が仲間であると言う意識が芽生えた時なのです。

 

このように「みんなの為」の「みんな」とはその問題に関係している仲間の人たちを指すのです。その「みんな」に仲間でない人たちを含んで考えてはならないのです。ですから「ヒトラーがドイツ人みんなの為にユダヤ人を虐殺したのは善なのか?」と言うのは善の本質が分かっていない誤った問いなのです。