>デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、論点先取ですね。循環論法の誤謬と関連しています<(青梗菜さんのコメント)
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に対して、いろいろと屁理屈をつけて否定しようとした哲学者たちもいましたが「真理」を否定することなどできないのです。「我思う、ゆえに我あり」の意味するところは、あらゆるものを否定しようがそれを否定している「思い」だけは絶対に否定できないと言う事なのです。つまり「我思う、ゆえに我あり」は「思いがある」と言う事なのです。そしてこの「思いがある」だけは誰であっても絶対に否定することはできないのです。
またこの「思い」と言うのは理性的な思いであり、これは言葉によって考えられる「思い」なのです。「思う」事は言葉を持たない動物たちだって「思っている」から行動するのですから動物たちだって「思っている」とも言えますが、デカルトの言う「思いがある」と言うのは言葉で考える「思い」つまり「理性がある」と言う事なのです。またこの理性と言うものも動物だって理性はあるのでは?と思えますから、そう考えるといろいろと難しいのですが、つまりは「論理がある」と言う事なのです。「理を言葉で考え論じるものがある」と言う事なのです。ですからデカルトの言う「思いがある」と言うのは人間的な思いであり「我思う、ゆえに我あり」と言うのは「人間とは何か?」と言う事であり、それは人間のイデアを示しているのです。
「思いがある、理性がある」と言うのは一般的には人間にしかないものと考えられています。つまり理性は人間にだけしかないものであり、また人間であればすべての人に共通して「在る」ものであり、それこそが人間のイデアと言うものなのです。また「理性」と言うのは他の対する動物たちにはなく絶えているものなのです。対が絶えている、これを絶対と言うのです。あらゆるイデアは絶対でありそれを真理と言うのです。「理性、思い」と言うのは人間だけのものであり、そしてそれはあらゆる人間と言われるものに共通して「存在」内包しているもの、つまりそれは「人間のイデア」なのです。
デカルトの言う「我思う、ゆえに我あり」はつまりは「人間とは何か?」と言う思索であり、それは人間のイデアとは何か?であり人間のイデアとは「言葉による思いがある、理性がある、論理性がある」と言う事なのです。しかしデカルトもそこまで深くは理解していなかったのですが、結局、デカルトがやったことは人間とは何か?であり、人間のイデアとは何かであり、その答えが「(言葉による)思いがある」と言う事なのです。これについて詳しくは「自分とは何か?について考える」を参照してください。
「我思う、ゆえに我あり」は人間のイデアであり、それは絶対であり真理なのです。真理とは一切の矛盾が無いもの(絶対)ですからこれを否定することなど出来ないのです。これが「事実判断(真理)を価値判断(自分の考え)で否定することはできない」いう科学の法則なのです。そして私が見つけた絶対善である「みんなの為」も絶対であり真理でありますから誰であっても否定できないものなのです。