「美しい花がある、しかし花の美しさというものはない」小林秀雄の有名な言葉です。

美しい花がある。しかしどんな花を美しいと思うかは、人それぞれです。「バラは美しい」と言う人がいる。「いやバラは主張が強すぎる、私は桜が美しいと思う」と言う人がいる。

確かに何を美しいと思うか、その価値観は人それぞれでよいけれども、美しいという言葉のイメージはみんな一致していなければ「美しい」を語れないのです。しかし私たちは「美しいとはこれだ」とはまだ分かっていないのです。

例えば「美しい」という言葉のイメージは「自分の近くにおきたい、あこがれる、心が明るくなる、見ているだけでうれしくなる」などみんなが共通して持っているイメージがあるはずです。そしてそのイメージが共通していなければ美しいものについてお互い語り合えることはないのです。美しい絵、美しい景色、美しい人、美しい物語、これらの美しいの意味とは何であろうか。

 

カッコいいにしても同じである。ロック歌手の姿がカッコいいというのか、背広をビシッと着こなした姿がカッコいいと思うのか、またカッコいい行い、態度もある。これもまたカッコいいの価値観は人それぞれでいいのですが、やはりカッコいいの言葉のイメージは共通していなければ、カッコいいについてお互い語りあえないのです。カッコいいのイメージは例えば「俺もああなりたいと憧れる、マネしたいな~、嫉妬するな~」などの共通するものがあるはずです。

 

美しいの意味、つまり美しいとは何か、美しいの本質、その本質を言葉で示したのが、美しいの本当の定義です。ですから美しいの定義は美しいと思うものをいろいろたくさん考えて、それらすべてに共通して「絶対に内包するもの、その本質」を探せばいいのです。これを美のイデアと言います。普段、私たちが美しいという言葉に持っている漠然としたイメージをはっきりと言葉で表すことが、美しいを「定義する」ということであり、美しいの意味、本質、イデアなのです。そしてイデアは絶対なものすべてを言うのです。永遠に変わらずそこに存在するもの、それをイデアと言うのです。

 

「美しいとは何か?」これを内包的定義と言い、これが本当の定義であり、本質、イデアであり絶対なものです。そして「何が美しいのか?」は外延的定義と言い、たくさん考えられる美しいの要素です。本来定義とは絶対的なものを言い、普段私たちが思い考える要素は本当の定義ではありません。

本当の定義は物事の本質・意味を他のものと区別できるように言葉で明確に限定することなのです。ですから内包的定義こそ厳密的な本当の定義なのです。

そして言葉の意味、本質が言葉のイデアと言うのです。イデアをそんなに難しく考えることはないのです。言葉のイデアとは言葉の本当の意味と言うことです。私たちは「何が美しいのか?」という外延的定義ではなく「美しいとは何か?」という言葉の意味、美しいの本質、つまり内包的定義を見つけなければならないのです。

 

言葉の本質とは分けることにあり、言葉の意味とは言葉が分かれている理由です。最初にあるのは意味、概念であり、その意味に言葉、名前をつけるのです。美しいという言葉が出来たのは、他のすべての言葉ではそれを表現できない何か違う「差異」があったからです。そのすべての言葉と分かれた違い、差異、理由(わけ)が美しいの意味であり本質なのです。それが美のイデアです。そして美しいの本質を言葉で定義できて初めて美しいの意味が「分かった!」と言えるのです。

それが定義できれば「花の美しさというものはない」から「ある」に変わるのです。美しいは人それぞれではなく、絶対的なものになるのです。それは美のイデア、つまり絶対美の発見です。

私的に言えば美の本質、美のイデアとは「心が奪われる状態」であると考えています。「ああ~、美しいな~」と感じるのはやはり「心が奪われた状態」なのです。

 

言葉の本質、つまり何一つ矛盾がなく、それら全ての要素に絶対に共通して内包するもの、イデアを見つけることは、すべての言葉において困難を極めます。私たちは日常で言葉を使うたびに、その言葉のイメージを形作っていきますが、それを明確に言葉で表すことは非常に難しいことなのです。すべての言葉を定義する? そんなことは時間の無駄です。まずは重要なものを定義すればいいのです。

それでも重要な言葉、愛や幸せ、自由、人権、平和など皆さん本当に定義できていますか? それらの本質が分かっていますか? それさえもまだ私たちには本当には定義できていないのです。いや、できないのかもしれません。それほど言葉の本質を知り、定義することは難しいことなのです。

 

私は前の投稿で人間の定義について書きました。その時、私の考えは書いていませんでしたが、ここで私なりに考えた人間の定義を言うならば「男の細胞と女の細胞との結合により自然に生じたあらゆる生物とは違う特有の肉体と機能を有する生物」となります。

人間の定義に深い思考ができるなど関係ありません、将来アンドロイドが深く考えることが出来るようになったら人間と言えるのか、そんなことはありません。前の投稿で「認識君」が人間だけをピックアップしたとき、人間にそっくりなアンドロイドであれば、間違って人間としてピックアップすることでしょう。しかし人間たちからすれば、このアンドロイドは、やはり人間ではないとして人間という容器の中から排除されることでしょう。


皆さんは動物の中から人間だけを選択することはできるでしょう。人間という容器に人間だけピックアップすることが出来ます。つまり人間とは何か皆さん潜在意識では分かっているのでしょう。

やはり人間を他の動物と分けるものはまず外見です、人間特有な外見です。他の動物たちとはちがう外見だけでも人間と分けけることが出来ます。そしてまた外見だけではなく、他の動物たちとは違う遺伝子で作られた細胞でできた肉体的な機能を持つものでなければならないでしょう。

またアンドロイドやAIなどでは不可能な不可思議な脳の働きがあります。その何かを持つのが人間と定義できるかもしれません。また理性を持つ者こそが人間と言えるのでは?とも思うのです。

このように私たちは人間の定義さえ本当には出来てはいないのです。それほど定義すると言うことは困難なことなのです。

 

「○○とは何か?」と問うことは本来、その○○の言葉の意味、本質、イデアを問う事であり、とても難しいことを問うているのです。言葉の意味とは言葉の本質であり、概念であり、言葉のイデアとも言います。どんな言葉でもその意味、本質、イデアを分かること、つまり定義することは困難を極めるのです。

しかし善だけは何故かしっかりと違和感のない言葉にする事が出来たのです。つまり善の定義、善のイデア、絶対善が分かったのです。

私の絶対善の定義のやり方は言葉の意味、本質、イデアを知る一つのヒントになるのではないでしょうか。(絶対善の定義を参照)