正しいとは何か、正しさには、科学的正しさや道徳的正しさがあります。例えば、数学のように数式を解くとき何か一つでも矛盾があれば、それは正しい答えとは言いません。矛盾がなければ正しい答えとなります。

 また、再現性がある事、何度やっても同じ結果となれば、それは正しいとなるのです。

 また確かな物証、事実があるということ。例えば、そんな巨大な生物がこの地上にいたはずはないと思っても、実際に恐竜の骨が世界各地で発見されれば、これは巨大生物、恐竜は実在したということになります。

 またどうしても結論が出ない時には、正しいを多数決で決めてもいいでしょう。この問題は賛成の多い方を正しいことにしようと決めてもいいのです。これは本当の正しさではないが、これも一つのやり方なのです。

 

 また全ての正しさの基本であるのが「論理的である」と言う事です。これこそがが絶対的に正しいのである。

 

人間は皆、死ぬ

ソクラテスは人間である

ゆえにソクラテスは死ぬ

 

この前提が正しいほど、結論も正しくなります。このように論理的であることが正しいの基本です。論理的とはほかの人たちにも納得ができる根拠に基づいていると言うことであり、違和感がない筋立てであると言うことです。科学的、道徳的正しさも基本的に論理的、道理的でなければならないのです。

 

 

そして道徳的、社会的問題を解くときの最も正しい行いは「私欲を抑え、公の為」と考えることなのです。この「公(みんな)の為」は正しい答えに導くための道具でもあります。この道具を使えば、正しい答えに辿り着く確率が最も高くなるのです。但し道徳的正しさの結論には絶対的なものはありません。賢さに比例する答えしか出せないのです。ですからみなさん、なるべく多くの人たちで考えることが大切なのです。

 

勿論、最も正しい行いは「私欲を抑え、公の為」と言っても、私たちには私欲を抑えることなどなかなかできません。それでも公の為と思い、できるだけ私欲を抑えなければ正しい答えには辿り着けないのです。それができるのはやはり、仲間であるという強い意識です、それがないとなかなかできないのです。ですから最大の公はやはり民族・国民になります。世界各国はなかなか仲間にはなれないのです。敵の為に思いやりをやれば自分たちが滅んでしまうことでしょう。ですから善は基本的に仲間の為にあるのです。

 

ここでは問題を解く一例として捕鯨問題を取り上げてみましょう。

 捕鯨問題は本来、人類の食糧問題であり、種族(人類)保存に関するものであるから、世界は自国の私欲を抑え、公つまり人類保存の為に世界が一致団結し、仲間となって、考えなければならない問題です。ですからこの問題では世界が公になります。

ところが今は食糧の危機感はあまりないし、世界各国は基本的に仲間ではないので、なかなか「世界の為、人類の為」とは考えきれないのです。やはりどうしても各国の利害、私欲が出てくるのです。

白人たちはクジラは頭の良い動物だから殺してはいけないなど、非科学的な私欲を持ち出してくる。イルカの問題にしても、イルカはかわいいし、頭が良いから殺すな!と実力行使をして止めさせようとする。しかし毎年多くのイルカが殺され、捕らえられている太知町の港に何故、頭の良いイルカは毎年、毎年殺されにやってくるのか? どう考えてもイルカは賢くないのです。私としては、もうイルカを殺すのは止めた方がいいと思うが、イルカを捕まえて水族館などに提供することまで止めることはないと考えます。

またオーストラリアなどの牛肉輸出国は牛肉が売れなくなるから捕鯨に反対しているのです。これもまた私欲です。このような白人たちの私欲でもって会議は進められるから、まともな答えなど出るはずはないのです。

 

善、正しい行為は私欲を少し抑えて、公の為と考えなければならないのです。ですから人類の食糧確保の為、私欲を抑え、いかにしたらクジラが絶滅せず、恒久的に人類の食料となるのかを科学的に、そして論理的に話し合わなければならないのです。

世界各国の代表が「正しいとは私欲を抑え、公の為と考えることである」と知っていれば、白人たちの発言に対して「それは私欲ではないのか、非論理的ではないのか、それは本当に公(世界)の為なのか」と強く反論することができるのです。そうなれば世界的問題も徐々に正しい答えに近づいていくことでしょう。

このように絶対善を日本、ひいては世界が知るようになれば多くの難しい問題もやがて解決に向かうのではないでしょうか。