今回は、倭姫命をお祀りした皇大神宮別宮の倭姫宮についてご紹介致します!💁♂️
御祭神である倭姫命については、前回のブログをご覧下さい!
倭姫命の功績について端的におさらいをすると、天照大御神が永遠に鎮まる宮として神宮を定められ、また神宮の基礎を定められたということです👆
そして、本年令和5年(2023)は大正12年(1923)に倭姫宮が鎮座してから100周年を迎えたのです!㊗️
それでは、倭姫宮が鎮座するまでの経緯を見ていきましょう!👀
神宮にとって偉大な功績を残された倭姫命をお祀りする神宮所管の宮社は、倭姫宮鎮座まではありませんでした😳
ただ、外宮の神官を代々務めた渡会(わたらい)氏の氏寺であった常明寺(じょうみょうじ)の門前に祀られていた「尾上社(おべのやしろ)」という神社の御祭神が倭姫命であったと伝えられています。
時代は下って明治維新を迎えると、倭姫命を神宮所管の宮社としてお祀りしようという議が起こり始めます。
●明治20年(1887)、神宮宮司鹿島則文が倭姫命を奉祀する神宮別宮を斎宮寮旧址に創建することを政府に請願。
●明治34年(1901)、神宮大宮司冷泉為紀が倭姫命奉斎の別宮創立を内務大臣に請願。
〈この頃は、日清戦争・日露戦争後であり、別宮が創建されることはありませんでした🙅♂️〉
●大正4年(1915)2月、宇治山田市(現伊勢市)市長福地由廉が倭姫命を奉祀する官幣社の創立を宮内大臣・内務大臣宛に請願。
●同年4月、倭姫命奉祀期成会が結成され宇治山田市長が会長に就任。5月に第36回帝国議会に「倭姫命奉祀ニ関スル請願」を提出、6月に貴衆両院で満場一致で採択される。
●同年6月、内務省神社局は倭姫命を皇大神宮摂社として奉祀する件について、神宮大宮司に意見を求めた。
神宮大宮司三室戸和光は神社局長宛に答申書、内務大臣宛に建言書を提出、倭姫命を皇大神宮別宮として奉祀されるよう求めた。
●大正8年(1919)1月、内務省神社局長より別宮創設内定の通牒が達し、神宮では調査結果を2月に答申する。
●大正9年(1920)、皇大神宮別宮として倭姫命奉祀のことにつき上奏、御裁可になる。
●大正10年(1921)、内務省告示第1号として告示された。
宮地にはいくつかの候補地がありましたが、皇大神宮からほど近い倉田山の地が選ばれました。
その後、大正10年3月に一般の地鎮祭にあたる鎮地祭が行われて、御鎮座に至る諸祭が執り行われました。
尚、鎮座祭は当初大正12年(1923)10月7日に御治定されていましたが、同年9月1日の関東大震災の影響により、改めて11月5日に斎行することが御治定されました。
大正12年11月2日、勅使佐伯有義掌典は御霊代を奉じて宮城を出発します。
11月5日午後7時、勅使佐伯有義掌典が参向して神宮祭主久邇宮多嘉王、神宮大宮司伯爵 三條西実義以下神職の奉仕によって鎮座の儀が厳かに執り行われました。
大宮司が御霊代を殿内の御神座に奉安して、勅使が降神を仰ぐ御祭文を奏上されました。
鎮座の儀に引き続いて、午後9時より御神前に初めて神饌を奉る大御饌の儀が執り行われました。
翌11月6日午前10時、改めて勅使を迎えて天皇陛下よりの御幣帛を奉る奉幣の儀が執り行われました。
翌7日、皇大神宮・豊受大神宮において倭姫宮が皇大神宮別宮として鎮座したことを奉告する臨時祭が執り行われました。
上の写真は、御鎮座の際に撮影されたと思われる倭姫宮になります(ブラお伊勢様より拝借致しました🙇)。
因みに、倭姫宮が鎮座する倉田山には神宮の博物館である「神宮徴古館」などがあり、丘を一つ越えると倭姫命の墳墓と伝えられる「宇治山田陵墓参考地」があります。
また、道路一つ越えると全国で2校しかない神職養成を担う大学である「皇學館大学」があります。